2015年4月24日金曜日

 望郷の鐘 の試写会が成功

 4月3日、札幌エルプラザホールで、映画「山本滋昭 望郷の鐘 満蒙開拓団の落日」の有料試写会が、10時30分、14時、18時の3回行われ、330人が入場し成功しました。当日は、北海道議会議員と札幌市議会議員の選挙告示日と重なり、また、1日中強風と雨が降り続く悪天候の中での成功でした。
 3回とも上映前に山田火砂子監督が挨拶に立ち「戦争の映画でなく平和のための映画を作った」と挨拶しました。また、山本滋昭の娘役の上野神楽ちゃん8歳も挨拶しました。
 日中友好協会札幌支部は、会員や準会員の協力を得て、前売り券の普及に務めました。前売り券は95枚普及し、昨年制作協力券を10枚普及していました。
 午後の部の試写会には、中国領事館の総領事夫人趙海藍さんも参加しました。
 4月14日の北海道新聞の「読者の声」欄では「満蒙開拓団 悲劇の思い」の見出しで、渡島管内鹿部町の主婦中東信子さん73歳の投書を掲載しました。
 紹介します。
 
 映画「望郷の鐘 満蒙開拓団の落日」を見た。
 昭和20年5月日本政府から旧満州へ開拓のために送り込まれた長野県住民がいた。ところが3カ月後に終戦。ソ連軍の侵攻で開拓団は逃避行を強いられ、幸い帰国できたのは2割ほどだったという。
 開拓団に同行した長岳寺の住職、山本滋昭さんは、捕らわれてシベリアの抑留された。後に無事帰国できた時、開拓団に参加した人を訪ね、彼らのたどった運命を1冊の本にまとめた。
 また、多くの子どもたちが優しい中国人に育てられいた事実を知り、残留孤児の帰国運動を始めた。 その生涯が山田火砂子監督によって映画になった。
 終戦間近な時に、なぜ満州へ送られたのか?国策とはいえ、住民に戦況の詳細が伝わっていなかったことが悲しい。
 1972年、日中国交正常化後に帰国できた孤児もいたが、戦後70年たった今なお、戦禍の苦悩を引きずっている人たちがいることを私たちは知るべきであり、戦争を語り継ぐべきであると強く思った。 

”精衛填海”を思う

 ”精衛填海”を思う
「この日本、愛すればこそ━新華僑40年の履歴書」を読んで
  道連理事長 鴫谷 節夫
 
 今年の「日中友好協会新年交流会」は殊の外楽しかった。思いがけなく内モンゴルのお酒や紹興酒があって年がいもなく手を出して、いささか酩酊、反省したが手遅れとなった。

 しかしこれとは別に大きな収穫があった。北海道中国会の陶さんに勧められて「この日本、愛すればこそ━新華僑40年の履歴書」(莫邦富著岩波現代文庫)を入手したことである。
 
 私達長年日中友好に携わってきた者には、この思うように行かない日中関係について、つい愚痴が出るものである。
 口には出さないが中国側は一体どうなっているんだという思いも無いではない。
 
 自分の心に問い掛けながらこの本を読んだ。わが心中の思い上がりが隅無く照らし出された。
 日中道連の皆さんにお薦めしたい。日中友好運動に係わる人々の必読書です。

春節を祝う集い

 学友会の集い
 北海道地区中国留学人員友好聯議会(学友会)の2015春節聯歓晩餐会が、2月18日、中国駐札幌総領事館で開かれました。

 滕安軍総領事が、北海道は中国からの留学生が多い地区と紹介しながら、「勉学に励み、この日本で就職したり祖国に帰って活躍したりするでしょうが、中日友好の懸け橋の役割を果たして欲しい」と激励の挨拶をしました。
 
 学友会の王堃壘(おうこんるい)会長が挨拶し、北海道大学などの留学生が、歌や踊り、書などを披露しました。
 
 その後楽しく美味しい晩餐会が始まりますが、日中友好協会札幌支部から参加した小川勝美事務局長と影浦貞宏事務局次長は次の春節の集いに駆け付けるため途中で退席しました。
 留学生担当の張毅領事が領事館の玄関外まで丁重にお見送りに出てくれました。