2016年2月26日金曜日

天津烈士陵園から弔電

  山崎幸さんのご親族及び日本中国友好協会北海道支部連合会の皆様へ。
 山崎幸さんのご逝去へを聞き、深い悲しみを感じます。謹んでここに山崎幸さんへの深い哀悼の意を表します。また、山崎幸さんのご家族の皆様にお悔やみを申し上げます。
 山崎幸さんは、生前、日本中国友好協会北海道支部連合会の会長として、永きにわたり中日友好事業の前向きな発展に力を注いで来られました。
 2010年から2014年、山崎幸さんは日本の友好人士とともに、何度も我が烈士園に来られ、戦争中強制連行され迫害を受けた中国人労働者を悼み、合わせて2010年9月我が烈士園に「中国人殉難者を祈念する観音像」を贈っていただき、2012年3月には我が烈士園に観音像厨子を贈っていただきました。
 数十年来、山崎幸さん及び多くの日本の友人たちが捜索し、穴を掘り、亡くなった中国人労働者の遺骨を送還していただき、心血を注いでいただきました。
 中日間の永遠に二度と戦わない、世世代代の友好を伝え、唱えるために弛まぬ努力をされてきました。
 我々は必ずこの悲しみを力にし、山崎幸さんの生前の意思を継承していかなくてはなりません。
 中日両国人民の世世代代の友好と協力して発展していくことを心より祈念しております。
                                                                                                  天津市烈士陵園
                                                                                              2016年2月19日

日中友好協会北海道支部連合会60年史

 札幌支部の影浦貞宏事務局次長が2年がかりで、事務所の古い資料や新聞などを取りまとめ、各支部が加除などして、今年印刷に回し、1月30日完成したものです。A4版66頁に目次や表紙がついています。
 2月号で送料込み2千円以上の募金の方にお送りしますとお知らせしましたが、2月23日にの支部理事会で千円以上の募金の方にお送りすることにしました。多数の申し込みをお願いします。
 1949年2月の日中友好懇談会の開催、札幌はじめ各支部が結成されました。
 1954年12月5日の北海道支部連合会の結成から昨年の活動までが掲載されています。

札幌支部理事会

 札幌支部理事会を2月23日開催しました。山崎幸さんのご逝去と葬儀、ご遺族から10万円の募金が寄せられたことを報告、5万円を60年史の印刷代として活用することにしました。
 年末募金が11万8968円寄せられたことを報告しました。
 新年交流会について総括しました。 会員・準会員の拡大などについて討議し、6月の全国大会までに5人の会員・準会員を増やす目標を決めました。
 60年史について、印刷代や活用方法について討議しました。印刷代が一冊2000円弱かかりましたが、山崎一さんからの募金もあり、一冊千円の募金で普及することにしました。
 多数の会員の参加で支部総会を成功させることについても討議しました。

 道連理事会

2月17日、道連理事会を開催し、山崎元会長のご逝去などについて発言があり、略歴などを札幌版で紹介してはと、提起されました。
 各支部が活動を報告。日中友好協会北海道支部連合会の60年史の発行と印刷代金の支払いなどを討議しました。各支部からそれぞれ印刷代協力金の目標が示されました。
 4月24日の道連総会の運営などを協議しました。
 6月の全国大会にむけて、会員・準会員の拡大について、本部第3回常任理事会の方針に基づき取り組むことや戦争法廃止2000万人署名の取り組みなどについて討議しました。

第39回 紀元節復活反対2・11道民集会 上田文雄弁護士(前札幌市長)が講演

 靖国神社国営化阻止道民連絡会(日中友好協会も加盟)は、2月11日、ホテル札幌ガーデンパレスで、紀元節復活反対2・11道民集会を開催し、前札幌市長の上田文雄弁護士が「憲法が危ないー安保法制下で殉職する若者を靖国に合祀?!そんな日が来ないために何をしなければならないか」と題して講演しました。
 上田弁護士の靖国問題との出会いは、司法試験を受けようと憲法を学んでいた時、自民党が議員立法で靖国法案を国会に提案した時であった。明確に憲法第20条に違反し、内心の自由の侵害で他宗教を差別化するものであったと述べ、先の大戦で未曾有の惨禍を被ったにも拘らず、戦争責任者(天皇)を日本人は裁いていないと指摘しました。
 今また、自衛隊は、米国の要請で治安能力・自己防衛力を増強し、さらには米軍の助手へと変わって来ている。
 「戦争法」はいくら丁寧に説明され「平和安全法制」と読み替えても憲法9条に違反する。
 戦後レジームからの脱却とは、欧米近代思想(自由主義)に対する基本的嫌悪感からきている?
 「日本固有の文化」といいながら対米従属の不思議な政治しせいだ、と批判しました。
 今、私たちには何ができ、何をしなければならないか。立憲主義の原点である権力者に憲法を守らせる。守らない権力者から権力を奪う方法=選挙である。
 この夏の参議院選挙で、壊憲勢力への厳しい批判を結集しよう。
 「戦争をさせない北海道をつくる会」による野党統一候補による共闘体制を模索している。
 安保法制・戦争法を放置しておけば、近い将来この国を担う若者が戦死を遂げ「靖国神社」に英霊として奉られることになるでしょうか?かかる事態は私たちの世代の責任です。若者が戦場で人を殺めれば私たちが共犯者ということになります。私は共犯者となることを拒否するために、今立ち上がります、と結びながら、衆議院北海道5区補欠選挙の候補者の統一は2、3日中に結論が出るのではないか、と述べて講演を終わりました。
講演する上田文雄弁護士

2016年2月24日水曜日

山崎幸さんのご逝去に、中国天津烈陵園から弔電

 山崎幸さんのご親族及び日本中国友好協会北海道支部連合会の皆様へ。
 山崎幸さんのご逝去を聞き、深い悲しみを感じます。謹んでここに山崎幸さんへの深い哀悼の意を表します。また、山崎さんのご家族の皆様にお悔やみを申し上げます。
 山崎さんは、生前、日本中国友好協会北海道支部連合会の会長として、長きにわたり中日友好事業の前向きな発展に力を注いでこられました。
 2010年から2014年、山崎幸さんは日本の友好人士とともに、何度もわが烈士園に来られ、戦争中強制連行され迫害を受けた中国人労働者を悼み、あわせて、2010年9月、我が烈士園に「中国人殉難者を祈念する観音像」を送っていただき、2012年3月には我が烈士園に観音像厨子を送っていただきました。
 数十年来、山崎幸さん及び多くの日本の友人たちが捜索し、穴を掘り、亡くなった中国人労働者の遺骨を送還していただき心血を注いでいただきました。中日間の永遠に二度と戦わない、世世代代の友好を伝え、唱えるために、たゆまぬ努力をされてきました。
 我々は、必ずこの悲しみを力にし、山崎幸さんの生前の意思を継承していかなくてはなりません。
 中日両国人民の世世代代の友好と協力に発展していくことを心より祈念しております。
                                 天津烈士陵園の大きな丸円印
                                         2016年2月19日

2016年2月16日火曜日

日中友好協会北海道支部連合会顧問の故山崎幸さんの告別式での小川勝美葬儀委員長の挨拶

 喪主・親族に代わりまして一言ご挨拶を申し上げます。
 皆様には大変ご多用中のところ、また、寒い中、告別式にご参列をいただき、献花もしていただき誠に有り難うございます。また、過分なる献花料やご供物・ご供花を賜り重ねて御礼申し上げます。

  山崎幸さんの略歴などをご紹介し、故人のご遺徳を偲びたいと思います。 
山崎幸さんは、1926年・大正151220日、職業軍人をされていた、お父さんと、助産婦をされていたお母さんとの4人兄弟の4番目、3女として朝鮮の羅南でお生まれになりました。山崎さんが3歳の時、お父さんが病気で亡くなられ、お父さんの故郷、福島に移られました。福島で尋常小学校高等科を卒業後、福島看護婦・助産婦学校に進まれ、1942年に卒業され、新潟県長岡日赤病院に勤務されました。入院患者には、傷痍軍人が大勢おられました。
 そのような情勢の中、1943年には、陸軍看護婦に志願して、中国大連市にありました旧日本陸軍金州病院に勤務され、1944年にチチハルの陸軍飛行隊司令部に転属されました。

 1945815日の1週間前、軍医に呼ばれ「軍人の家族と一緒にハルピン飛行隊に行き、日本へ帰ってくれ」と命令され、ハルピンに向かう途中の14日、ソ連軍に列車を止められ、翌15日に敗戦を迎えました。
 ソ連兵や占領中の日本軍のやり方に反発した中国人の略奪にあうなど、命からがらの逃避行、難民生活をされました。
 日本軍が武装解除されるとすぐアメリカの支援を受けた蒋介石の国民党軍と中国共産党の八路軍との国共内戦が始まりました。そのような中、山崎さんがいる収容所に、19466月、日本人の保健婦桟敷(さんしき)芳子さんと中国人医師の王群先生が来て「手術場で働ける看護婦を探している、1か月でいいから働いてほしい」「生命と衣食住は保障するから看護婦の技術を生かして患者のために働いてほしい」と頼まれ、王先生の野戦病院を手伝うことになりました。
 中国東北地方は、八路軍の支配地域で、八路軍の従軍看護婦となり、広い中国の各地を転戦し、山崎さんが吉林省延吉にいるときの194910月、新中国が成立しました。
 その後、河北省石家荘のカナダ人医師ノーマン・べチューン記念国際平和病院に勤務しました。その後、人民解放軍を除隊されました。
 戦後、中国に渡られた、山崎治夫さんと知り合い、四川省成都の人民病院に勤務していた1958年、結婚されました。喪主を務められている長男の一さんがお生まれになりました。
 中国にいた19537月、日本共産党に入党されておられます。
 1958年の7月、最後の帰国船・白山丸で3人は、日本に帰国。少しの間、福島の実家におりましたが、ご主人の治夫さんが、北海道出身であったため、札幌に移られました。

1959年、社団法人北海道勤労者医療協会に就職されました。
 勤医協では、札幌診療所に看護婦として勤務され、菊水病院の看護婦、婦長代理、19641月移転新築された札幌病院の婦長、総婦長などを務め、東区伏古に勤医協中央病院が新設されると、総婦長として勤務されました。
 1985年に60歳定年で退職しましたが、5年間、嘱託職員として中央病院に勤務されました。

 山崎さんは、日本に帰国直後に日本中国友好協会に入会しました。
 病院勤務の時は、仲間の職員に日中友好協会の入会をすすめ、日中友好新聞の拡大・普及などの活動をされました。
 退職後は、無報酬で、日中友好協会の活動に専念され、「平和の語り部」活動などを熱心に取り組み、札幌支部の事務局長、副理事長などを務め、20074月からは北海道支部連合会の会長を20134月まで務められ、顧問に就任していました。
 200511月には、新中国の建設に貢献されたことから、中国政府の招待で、北京の釣魚台に赴き、梁国防部長から中国の建軍記念日の81日を記念し、中国革命に貢献した人を表彰する8・1勲章を受章されています。この時、中国政府から大歓迎を受け、山崎さんも大変喜んでおりました。
 
1954年から、戦時中の中国人の強制連行犠牲者の遺骨の発掘、送還運動が幅広い道民の寄付金で取り組まれました。第9次の送還で終了しましたが、約10万円の浄財が残り、そのお金で、1961年に中国人殉難者の慰霊観音像を制作しました。
 中国に届けるのに手間がかかっている間に、中国の文化大革命が始まり、観音像は日中友好協会の事務所に保管されたままでした。
 20101月 中国総領事館に山崎さんと私が新年の挨拶に訪れたおりに、仏像を天津の「在日殉難労工記念館」に寄贈したい旨の話をしました。
 総領事が早速天津に連絡を取ってくださり、3月に仏像の受け入れが決まりました。
 文部科学省の文化部に国宝・重要文化財でないことの証明を受け、海外持ち出しの許可も取りました。
 6月の中国人殉難者全道慰霊祭に仏像を持参し、参拝者に披露し、8月には山崎さんと私が、仏像を持参して、北海道庁で記者会見を行いました。
 道新はじめ各紙に大きく報道されました。
 91日千歳をたって北京に着き、9月2日、山崎会長、鴫谷節夫理事長と私が仏像を持参して天津の労工記念館で贈呈式を行って寄贈しました。
 2012年の3月には、天津労工記念館への参拝ツアーを組んで山崎会長など20人で仏像が入っていた朱と黒の漆塗りに金箔をはった2メートルを超える厨子を持参して行き、厨子も納めてきました。
このツアーで北京にある盧溝橋事件の「抗日戦争記念館」を訪れたときには、山崎さんは十分に歩けず、車いすに乗り、鴫谷さんが押して広い館内を見学しました。
 このツアーが、山崎さんの最後の中国旅行になりました。
 
その後も山崎さんは、比較的元気で日中友好協会の活動をしておられましたが、事務所からの帰り、札幌駅で倒れることなどがありました。
 201410月には、長男一さんに付き添われて、2番目のお姉さんを福島に訪ねる旅行を行っています。
その後 勤医協中央病院に入退院などされておりましたが、昨年1月勤医協西区病院に入院し、10月からは、特別養護老人ホーム「もなみの里」に入所され、後輩の看護師の手厚い看護やケアワーカーの介護を受けて生活をされておられました。
2016213日 午前028分「慢性腎不全」でご逝去されました。満89歳でございました。
 
生前山崎さん寄せられました皆様のご厚情に心から感謝申し上げますとともに、今後は喪主であられます一さんやご遺族にお寄せいただきますようお願い申し上げ、葬儀委員長の挨拶を終わらせていただきます。
 本日は、誠に有り難うございました。

 



2016年2月9日火曜日

日中友好協会新年交流会 参加者で張毅領事と記念撮影

 中国領事館の張毅領事や来賓の皆さんと一緒に参加者が記念撮影をしました。
 所用で札幌市議などは早期に退席していました。

うたごえの黒沢薫さんがアコーディオン演奏し「東京・北京」を全員で合唱

 うたごえの黒沢薫さんがアコーディオンを弾きながら、今年も元気に唄ってくださいました。
 日中友好協会のの各支部の紹介の後、参加者全員で「東京・北京」を合唱し、伊藤貞市道連理事長の閉会挨拶で新年交流会を終了しました。 

百歳の小野寺昌二先生がスピーチ   中国平和の旅の企画案を紹介

今年7月満百歳になる小野寺昌二元北大助教授が紹介されると進んでマイクの前に立ち「一生勉強です。毎週火曜日北大で勉強しています。これが楽しみです」と述べられました。
 また、旅システムの青木久美子さんは、「日中友好協会と一緒に行っている中国平和の旅」の企画について、「8月26日(金)から9月1日(木)までの1週間の予定で中国東北地方のハルビン、チチハル、瀋陽などの日本軍残虐行為の歴史などを中心に日中友好協会の皆さんと具体化していきたい」と述べられました。

日中友好協会新年交流会 来賓のテーブルスピーチ

テーブルスピーチに移り、北海道華僑華人連合会の胡軍毅顧問、晋南貿易の曲健三社長が挨拶。曲さんはこの中で、北海道札幌華僑総会の席占明会長が昨年11月にご逝去され家族葬を済まされたが、交流のあった私どもが呼びかけて暖かくなった時期にしのぶ会を計画していることを紹介しました。 北海道華僑華人婦女会の周玉蘭会長を紹介しました。
 アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会の鈴木副理事長が「私どもはキューバやベトナムとの交流が中心だが日中道連の60周年とのことで参加しました」と連帯の挨拶を述べました。
 北海道中国会の陶恵栄運営委員長と厳俊活動副委員長が挨拶されました。
北海道地区中国留学人員友好聯誼会(学友会)の朱偉会長と曹建祥幹事長
北海道地区中国留学人員友好聯誼会(学友会)の朱偉会長と曹建祥幹事長のお2人が参加し、偉会長と曹幹事長がご挨拶。曹幹事長が華僑華人連合会の胡顧問と一緒に中国の歌をご披露しました。
曹幹事長と華僑華人連合会の胡顧問が歌う

日中友好協会新年交流会 太極拳の表演

札幌支部の三木ふみよさんは、「陳式簡化」を、小樽支部の木嶋敏子さんは「楊式扇」を表演しました。

日中友好協会新年交流会  中国語教室の先生が余興で出演

 余興の部に入って札幌支部の中国語教室の大沼尚子先生が美しい声で中国語で「夜来香」など2曲を独唱しました。
 新年交流会恒例の中国語教室の楊志剛先生も、得意のアコーディオンで「牧民之歌」を演奏して参加者を楽しませてくれました。

来賓の北海道合同法律事務所 渡辺達生弁護士が挨拶と乾杯の音頭

 来賓として参加された北海道合同法律事務所の渡辺達生弁護士の乾杯の音頭で祝宴に入りました。

 乾杯の音頭を取られた渡辺弁護士は、テーブルスピーチの中で、劉連仁裁判闘争などで弁護団として活躍された広谷陸男弁護士が1月22日に急逝されたことを報告し、渡辺弁護士などが、韓国の従軍慰安婦問題の裁判にかかわる、植村裁判についても紹介し、支援を呼びかけました。

伊藤理智子札幌市議も激励の挨拶

駆けつけた日本共産党札幌市議団の伊藤理智子議員は安倍首相の暴走政治を批判し、「『戦争法』廃止の国民連合政府を目指して頑張りましょう」と激励の挨拶をしました。

来賓挨拶される張毅領事

 来賓として参加された中国駐札幌総領事館の張毅領事は「中国と日本の草の根の交流が重要」と強調し挨拶されました。
来賓挨拶される張毅領事

60年史出版記念を兼ねて・2016年   新年交流会を盛大に開催

日本中国友好協会北海道支部連合会と札幌支部の共催で、1月31日、KKRホテル札幌の孔雀の間で、日中友好協会道連60年史出版記念を兼ねて新年交流会を盛大に開催しました。
 中国領事館から張毅領事を始め中国人留学生や在日華僑など多数の来賓の皆さんと、小樽、苫小牧、室蘭、帯広、札幌の各支部の皆さん、46人が参加しました。
 新年交流会に先立って、劇団一揆のみなさんが「北海道弁で憲法9条を語る」と「ソーラン節」の踊りを披露してオープニングを飾ってくれました。
 司会は、札幌支部の小川勝美理事長が務め、鴫谷節夫道連会長が、「戦後70年の昨年、第50回の中国人殉難者全道慰霊祭を成功させました。今年は新たな50年にむけての第1回になり、ぜひ成功させたい。この節目の年に日中道連の60年史を取りまとめ、先日完成したので本日ご参加の皆さんにお届けできることになりました」と60年史を示し紹介しながら主催者挨拶をしました。

中国領事館を訪ね   張 毅 領事に新年のご挨拶

 1月26日、中華人民共和国駐札幌総領事館を、鴫谷節夫日中友好協会道連会長と小川勝美札幌支部理事長が訪ね、張毅領事に新年のご挨拶を行い、今年の第51回中国人殉難者全道慰霊祭や中国平和の旅への協力を要請し、1月31日の新年交流会へのご参加をお願いし懇談しました。
 張領事は2年前に着任し、「教育」を担当しておられ、パルピン出身で、新年交流会に「私が参加します」と述べられました。
 鴫谷会長、張毅領事、小川理事長