2021年4月6日火曜日

図書館の自由

 図書館の自由

 日中友好協会会員・北海道議会議員(日本共産党)
                    宮川 潤
札幌弁護士会の調査で、10図書館が「警察から照会を受けていた」ことが判明し、道議会で取り上げました。
 この「照会」は、刑事訴訟法197条第2項「捜査について・・・必要な事項の報告を求めることができる」によるもので、裁判官の令状の無いものです。
 戦前・戦中の図書館は、「思想問題対策として・・・(長野)県下図館(ママ)から赤い本を駆逐」(「戦前期図書館統制の研究」小黒浩司)と思想調査の対象となり、「図書館長・・・は、マルクス主義に関する数冊を発見し、ただちに撤回(同)と自己規制に陥りました。
 戦後、「図書館の自由に関する宣言」(日本図書館協会綱領)が、「国民に対する『思想善導』の機関として、国民の知る自由を妨げる役割さえ果たした歴史的事実があることを忘れてはならない。図書館は、この反省の上に、国民の知る自由を守り、ひろげていく責任を果たす」と、宣言したのです。
 私は、「『照会』に回答すべきでない・・・『宣言』を全面的に本道図書館行政に生かすべき」と質問しました。
 教育長は、令状の無い「照会」には原則として答えないこと、「知る自由、表現の自由といった『宣言』の理念を尊重し、実践していくことが大切」と前向きの考え方を示しました。
 図書館の自由が宣言されていても、こっそりそれを侵そうとする動きが現れてきます。憲法第12条は、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」としています。私たちは、自由を侵そうとするものの動きを油断なく監視し、自由を守る不断の努力を惜しまないことを改めて誓いあいたいと思います。

【運命の糸に導かれて】     劉連仁さんの思い出(3)

 【運命の糸に導かれて】  劉連仁さんの思い出(3)

                  日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫

 昭和20年7月末、劉連仁さんが明治鉱業・昭和鉱業所から仲間5人で脱走した時、私は遠く離れた岡山県後月郡西江原町の国民学校4年生でした。食料増産が叫ばれ、3年生以上は山奥の開墾と薩摩芋の植え付けに駆り出されていました。

 米空軍の空襲で阪神方面は元より近くの岡山は6月29日未明、福山は8月8日深夜焼き払われ、8月6日は夏休み中だったが、数日後全員登校で「広島新型爆弾恐るるに足らず」と訓示され、15日は6年生の兄が昼すぎに帰ってきて、「日本は負けた」と言ったが日頃叫ばれていた「一億玉砕」の話は出ませんでした。

 この頃劉さん達仲間は3人になって、羽幌付近を線路沿いに北に進んでいました。北に進んでいけば朝鮮と陸続きで、満州まで歩いて行けるのではないかと考えたそうです。

 戦争が終わって9年目、1954年4月私は幸運にも広島大学教育学部に進むことが出来ました。ここには珍しい「高校教員養成課程」がありその中の国語科です。その年3月ビキニ水爆実験があり、55年に第1回原水爆禁止世界大会が広島で開かれました。

 1958年2月劉さんは当別で発見され、4月10日白山丸で帰国し、私は同じ4月教員になって俱知安農業高校に赴任しました。

 運命の糸に導かれるように劉さんとの接点が生まれ、小林多喜二に憧れて北海道に来た私の、やるべきことの一つが出来たことになります。