2021年5月11日火曜日

私と中国 帯広市 本川 功市

  私は昭和18年、旧満州奉天(現瀋陽)で生まれました。父母は、新たな生きる場として上3人の子供を連れて大陸に渡っていたのです。

 働き場所は満州鉄道系列の炭鉱です。そこで係員として働き、現地の中国の人たちと一緒に働き随分と仲良くしていただいたとききます。しかし敗戦、ご多分に漏れず大変な思いをしながら帰国・・・。

引き上げ時私は3歳、中国の記憶も引き上げの記憶も全くありません。しかし生まれ故郷、物心ついたころから一度は中国に行ってみたいと思っていました。

 やっと訪ねることが出来たのは60歳を過ぎてからのことでした。夫婦と長男、引き上げ時8歳だった長姉の4人で生まれ故郷を探して歩きました。どうやらそれらしい所までは行きましたが、そこが本当に故郷なのか遂に分らずじまいでした・・・。炭住などは在りませんでした。逆に、日本軍が中国人を虐殺して埋めたという万人坑などを目にし、心を痛める旅となりました。

 しかし、私は中国の大地が好きでもう20回近く訪れています。もう何回か行きたいと願っていますがこのコロナ禍、そして今の習近平政権には恐怖さえ覚えます。正常に戻るにはどちらもしばらく時間が必要なようです。

 80歳を目前にした今、中国旅行はもう無理かとも思いますが一日も早く自由に往来ができる日を願っています。

【席占明さん文書】 劉連仁さんの思い出(4) 日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫

 【席占明さん文書】劉連仁さんの思い出(4)

          日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫

 私が日本中国友好協会に参加したのは、1960年の夏でした。この年はご存じのように60年安保の大闘争が全国を席巻した年で、6月の山場には全国各地で上京抗議団が組織され、北海道からも全道労協を中心に強力な抗議団が上京しました 

 私は北海道高教組代表団の一員として参加し、その時知合った小樽支部の相場実さんに誘って貰って日中友好運動に生涯関わることになりました。

 今回劉さんの事を書くために資料を整理していると「席占明さん文書」と自筆した袋が出てきました。その中に「劉連仁の帰国前後」という題の講演記録(2000年12月8日)がありました。帰国直後(天津)の劉さんの様子を欧陽文彬記者が回想した一節があったので紹介します。

 翌日欧陽さんが、よく眠れましたか?と聞くと、思わず劉さんが泣きだしました。どうしたのかと聞くと、「俺はもう普通の人並みの生活ができなくなった。北海道の気候は寒く冬は長い。山の洞窟の中で寒さをしのがねばならず、暖かい日に穴から出るくらいで、あとは昼となく夜となく穴の中で縮こまっているだけ。林の中で野宿するときはクマの襲撃を注意するため熟睡できない。一晩に何十回もびっくりして目が覚める。いまベットがあってもうまく眠れない」と言いました彼女は、大の男が泣いているのを本当にたまらない。

 昭和炭坑での虐待、山での苦難でも泣いたことがないのに。これは相当のショックを受けたのだと思うと回想しています。




 席占明さんがこの講演をした2000年9月2日に劉連仁さんは87歳で亡くなっています。