2022年12月13日火曜日

慰霊祭の基礎固まる  第10回慰霊祭      

 慰霊祭の基礎固まる

  第10回慰霊祭                   

     劉連仁さんの思い出(20)

   日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫


  早くも維持管理費の問題

 1975年中国人慰霊祭は第10回目を迎えました。

これに先立って第8回では活版印刷の案内状が作られています。しかし文面は次の通り補修のため「募金」も呼びかける内容で、中国烈士園の維持が大きな課題となる前兆でした。

 中国人殉難者全道慰霊祭への参加と「日中友好碑」の補修のための募金にご協力のお願い

  和田理事長を迎えて

 第10回慰霊祭の世話人は次の八名でした。

 実方正雄・小樽商科大学学長

 稲垣 祐・小樽市長

 岡 武夫・仁木町長

 小柄義信・余市町長

 島 悳・小樽仏教会会長

 松浦一・北大名誉教授

 戸谷富之・北大教授・日中道連会長

 秋保 充・医師・日中小樽支部会長

  次の通りメモが残っているので掲載します。

 日中不再戦友好碑建立十周年記念 中国人殉難者全道慰霊祭次第

 (A)

1開会

2地元代表挨拶 仁木町長

3読経 仏教会

4焼香 氏名読み上げ

5弔電披露 

6世話人代表挨拶戸谷会長

7閉会

  会場移動三十分

 (B)記念パーティー

1開会❘進行係(道連)

2感謝状贈呈❘

 壇上 和田、補助田浦

3日中友好協会代表挨拶

 本部和田理事長 十分間

4仏教会代表挨拶

5乾杯❘道連

6受賞者代表挨拶❘井上

7スピーチ

8閉会挨拶❘秋保


 この行事を担当した役員は約二十名でしたが、当然のことながらほとんど鬼籍に変わり、生存者は私を含め三名です。

                (つづく)

2022年12月2日金曜日

統一協会の何が問題か 郷路征記弁護士著  緊急出版

 統一協会の何が問題か

          郷路征記弁護士著  緊急出版


  マインドコントロールとは何か?


 信者はなぜ家庭を崩壊させるような

    多額の献金をするのか?


 その伝道・教化手法の違法性は

    どこにあるのか?


 統一協会と対峙した35年

 見えてきた被害者救済の道筋と、

 被害防止の方向性①2022年8月23日に自由法曹団100周年記念北海道支部特別例会・共催青年法律家協会北海道支部で行われたオンラインで講演会の内容を再編。②世界10月号。等を収録したもの。


紀伊国屋書店札幌駅前店、新札幌店にあります。

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 ひらぎし九条の会11月例会 講演会「今の中国はどんな国か」


  ひらぎし九条の会  11月例会

 講演会「今の中国はどんな国か」

   11月20日(日)豊平区民センターにおいて、ひらぎし九条の会の11月例会が開催され、西南学院大学名誉教授の村岡伸秋さんを講師に「今の中国はどんな国か」と題して講演が行われました。

 日中友好協会札幌支部に案内があり、小川勝美理事長が参加しました。

 村岡氏は、北大経済学部助手の後、中国政府奨学金留学生として中国南京大学に留学。その後九州の西南学院大学経済学部助教授、教授を務め、昨年3月定年退職、名誉教授になったと自己紹介。

 講演では、中国の基本データなどを紹介し、経済や外交などについて1時間にわたって詳しく紹介しました。

 特に、GDPで世界第2位だが、国民一人当たりだと62位。国内格差は、北京が1位で31位の甘粛省と4・55倍にもなる。国内格差はそれでも縮小してきている。改革開放直後の79年は上海と貴州省は12倍の格差だった。

 北京などの渤海湾地帯、上海などの長三角地帯、広東省などの華南地帯の三大経済圏と10省市が経済成長をけん引してきた。

 90年一人当たりGDPが185位が2019年62位まで高まっているが、上位1%の富裕層が国内資産の25%を保有している。

 中国はモノづくりを低く見る文化があり、「ないものはお金を出して買えばいい」という考えが主流だった。現在はAIを使って物を作っていくことに。15年には「中國製造2025」を発表。先端技術分野の開発は官主導、民間資本は、主に金融や流通に流れ製造業へは遅れている。総合製造業の代表である自動車産業は、外資との合弁。都市と農村問題では、農村はいまでも30%は読み書きができない。

 外交では、「一帯一路」構想の立ち上げ、2017年習近平は「大国外交」の言及。中国の伝統的な対外政策は「朝貢」と「柵封」体制、「国際社会」や「主権国家」の概念が希薄。などと紹介しました。

 男女平等の質問に答えて、農村はいまも封建的であり、都市部は女性が強く、食事などもつくらないで買い求めるのが普通などと紹介しました。

2022年11月1日火曜日

 しっかり取組んだ 中国人殉難者全道慰霊祭       

  しっかり取組んだ

 中国人殉難者全道慰霊祭 

     劉連仁さんの思い出(18)

   日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫


   「筋金入りの先輩たち」

 当時の日中友好協会小樽支部には筋金入りの先輩がたくさんいて、私の心配をよそに動じる気配がありませんでした。騒ぎ立てることなど全くありません。これは今でも不思議です。しかし心の中では皆一様に、この異常な文革が一日も早く終息することを願っていたのは間違いありません。

 田浦事務局長、本間喜代人理事長を中心に日中友好協会としてやるべきことをしっかりやるという態度で慰霊祭世話人代表の小樽商大学長の参列も絶えることはありませんでした。

 

 「中国側との関係断絶」

 しかし日中友好協会の本部では、一部の毛沢東派幹部が協会の財政から大金を持って脱走し、日中友好協会正統本部をつくり、策動を重ねていました。中国側はこの「正統本部」を日中友好協会と認め、私たちとの関係を断絶しました。

「あるSL労働者の旅路」

 田浦さんの後事務局長を勤めた武田篤朗さんは、1997年12月出版の自伝「あるSL労働者の旅路❘80年かけあるき」の「あとがき」につぎのように書いています。


  私の人生に決定的な影響をもたらした「新中国」は「文化大革命」や「天安門事件」にみられるように大きく変貌し、人々を感動させた当時の「良さ」は昔語りとなった。

 幾千万の人民の血をもって購われた「新中国」の歴史を思う時、あまりにも大きな人民の犠牲に痛恨の念を禁じえない。私は、中国人民との友好を願いつつも政権に対する信頼は、事実と道理にてらして、強い不信感に変わった。

 しかし、四千年の歴史に培われた中国人民の知恵と潜在力は、何時の日か民主的政権を我がものとし、曾ては国際的評価を得た「平和五原則(領土・主権の尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和共存)」に光を当てるであろうと期待される。


 日中国交正常化50周年  記念シンポジウムに参加して                 釧路支部 原 聰

  日中国交正常化50周年

 記念シンポジウムに参加して

     釧路支部 原 聰


   日中国交回復は戦後の国民の願いであり、日中友好協会の創立以来の課題でもありました。

 中国への侵略戦争に始まったアジア太平洋戦争と敗戦の痛切な体験と反省にねざした要求であり、課題でした。当時国民の中に日中国交回復を実現して平和な友好関係を実現することこそ、戦後日本の取るべき道だとの世論があり、国交回復運動を支え、日中国交回復が実現しました。

 釧路支部も労働組合、民主団体、女性団体と共に全国三千万署名に取り組みました。

 国交回復後日中両国民の往来、文化・経済交流などが可能となり活発になりました。

 日本に好感を持つ中国人が多いのに反し、中国に好感を持つ日本人は20%程とのこと。

 今回のシンポジウムは、日本人の嫌中感が広がるなか、日中友好と平和を願って活動する若い世代の思いを聞けたことが成果でした。

日中国交回復50周年によせて     

 日中国交回復50周年によせて

                   岡崎 邦宏


 私が日中友好協会にかかわるようになったきっかけは、井上司先生との出会いがあったからでした。

 当時先生は札幌東高校に在職中で、私も当時白石区内の公立小学校に勤務しておりました関係で、先生に勧められて『日中友好新聞』の購読を始めました。

 その当時は中国の文化大革命やその余波の中で、日本と中国の関係は余りよくありませんでした。私自身も中国の革命文学を読みあさっていた学生時代と比べても、中国とは余り友好的な感情を持てない状態でした。それでも、尊敬する井上先生から勧められたので、『日中友好新聞』の購読を了承して、以来現在に至っております。

 実は、日中友好協会札幌支部理事長の小川勝美氏とは、江別高校の同級生でありました。還暦を過ぎた辺りから、彼も含めて何人かの同級生と年何回か酒を飲んだりミニ旅行をしたりする様になりました。(現在はコロナの関係で中断しています)そんな関係が、私にとっての日中友好協会との第2の接点でした。

 現在の日中関係は香港問題や台湾問題を見ても、自分自身が友好的な心情を醸し出せない状態にいることも事実です。しかしながら、日本と中国は長い歴史の歩みの中で、何を基調にしていくかを考えた時に、『対決・軍備増強』では、課題の解決にはつながらない。『日中友好』でしか有り得ない。今いろいろ苦労の多い時期でも在るが、地道に努力していくことが大切であろう。

「プロレタリア文化大革命の 本質は何か」   

 「プロレタリア文化大革命の 本質は何か」

         劉連仁さんの思い出(17)

 日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫



  「まさか、あの偉大な      毛首席が」

 吹き荒れる「文革」の中、歯を食いしばるような思いの中、中国人慰霊祭に取り組む私たちの最初の課題はこの「文革」の本質を突き止めることでした。日本のマスコミは「文化」というなまえに惑わされて、何か崇高な革命のように讃える論調が圧倒的でした。

 私は紅衛兵の追求とリンチによって自殺した老舎のことを聞いた時、これは間違った運動だと感じたがまだすっきりしません。

 「10・10論文」を

  繰り返し読んで

 歳が明け1967年10月10日、「赤旗」6ページにわたる論文「今日の毛沢東路線と国際共産主義運動」が載りました。私たちは10・10論文と言って夢中になって読み進めました。『二、(2)「文化大革命」の主要な内容は、毛沢東一派の専制支配の確立にある』という部分を繰り返し読んですっきりしました。そして私の中に強固に張り付いていた「毛沢東崇拝」は音を発てて剥がれ落ちました。

 「資料室から、

  コピーを取り寄せる」

 念のためもう一度見ておきたいと思って、中央委員会の資料室にコピーを頼みました。資料室に次のような礼状を出しました。


 うろ覚えだった「10・10論文」に会えて私の記憶が確かだったと嬉しく思っています。

 一九六七年十月といえば「不再戦友好碑」を建立し除幕慰霊祭を行ったのが1966年10月29日のことですから第二回慰霊祭を終えたばかり、大混乱に陥っていた頃です。私は31歳、この論文を夢中になって読みとおした記憶があります。

 「文化大革命の主要な内容は毛沢東一派の専制支配の確立にある」という章を繰り返し読み返す中で、この先も日本共産党とともにこの中国人慰霊祭に取り組んでいく決意が出てきたように思います。

 ありがとうございました。



日中友好協会62年の回想    

 日中友好協会62年の回想

 道連顧問・美唄支部事務局長 供野 周夫


 私が日中友好協会の一員となったのは昭和27年の事で知人のすすめで「三笠でも日中友好協会を組織してほしい」という話であった。日中不再戦を意識している何人かで支部(準備会)を組織した。少ない人数で中国物産展を開催した。一番売れたのは絹張で中国の山水画が描かれていて、飛ぶように売れた。

 昭和30年頃だったと思うけど、北炭新幌内の労組委員長が中国の炭鉱協会の招待で中国に行った。その事を聞いて地区労・社会党の中では「自分も日中に入会していたら中国に行けるかも知れない、という淡い思惑があり、日中友好協会に15人程度入会するので地区労・社会党に副支部長と会計のポストをほしい、というものであった。翌日の総会でもポストの要求で混乱し、道連の猪股事務局長の説得にも聞く耳をもたず、横暴が通らないとみると退散した。結局従来の役員を確認して散会した。

 地区労・社会党の妨害は昭和41年の年にも起きた。AA連帯委員会の一行十数名の中国代表団が三笠に来ることになり、昼食会を、三笠の労働会館の食堂で開くことをを決めていたらしい。2日前になって、昼食会の会場を断って来た。道連からの知らせで、年休を使い会場探しに奔走した。三笠で一番豪華なホテルは快よく応じてくれて一行は喜んで次のスケジュールで会場を去った。昭和42年に美唄に転勤するまでの15~6年は波乱万丈の時代であった。

 美唄に正統本部という分裂組織があったようだが、そのうちに消えて、今、日中友好を口にするのは私たちだけである。

     (とものかねお88歳)

 真珠湾攻撃から   東京大空襲・広島・長崎へ

  真珠湾攻撃から

  東京大空襲・広島・長崎へ

     ❘敵基地攻撃能力保持の末路❘(下)

    日中友好協会道連会長 鴫谷 節夫


 「空の要塞B29と

  こどもの竹槍訓練」

 国民学校3年生になると軍事教練に参加させられた。私は真珠湾攻撃の翌年に1年生になったから3年生は昭和19年4月からである。

 その頃学校では、先生達が校門を入った内側にわら人形を造り、側に竹槍を立て、生徒に朝登校したら先ずその竹槍で藁人形を突いてから教室に入れと命じた。

 3年生の軍事教練は「竹槍訓練」だったので、私は習ったとおり得意になって突いた。しかしみんなが突くものだから、すぐに藁がばらばらになっていつの間にか片付けられた。

 チャーチルとルーズベルトの似顔絵がこの藁人形に取り付けてあったのだ。生徒たちはみんな米英の指導者の名前は知っていた。先生は「日本が戦争に勝つ、相手は名前が悪い、ズルズルベッタリとチャーと散る」と言った。私は先生が言うのだからそんなものかと思ったが、竹槍の方はどうなるのかよく判らない。第一アメリカ兵はどこから来るのか、この竹槍で突いて死ぬのか、こども達で話した結論は、その頃「B29」が話題だったので、きっとB29でやってきて、飛行機故障して落下傘で降りてくる、その下に竹槍を構えお尻の穴目掛けて竹槍で突き上げれば痛い痛いと逃げて行くだろうというものであった。

「焼き尽くし殺し尽くす

 ❘東京・広島・長崎・」

 東京大空襲から広島、長崎につながる米空軍の日本人殺戮爆撃は、日本軍が中国侵略戦争で犯した「三光作戦」を彷彿させるものがある。前掲の「日本大空襲『実行犯』の告白 なぜ46万人は殺されたか」(新潮新書・鈴木冬悠人著)を読みながらつくづく感じたことがある。

 日本国民は「大日本帝国憲法」に変わって世界の最先端を行く「日本国憲法」を手に入れ、これでもう大丈夫、メデタイメデタイとすっかり安心して、敵基地攻撃能力保有から始まりその惨憺たる末路に至る具体的な歴史を知ろうとしない国民になってしまったのではないか。

 バイデン大統領がやってると岸田首相は日本国民に対する何の説明もなくさっさと軍事費倍増を約束した。

バイデン大統領はアメリカ産の高額兵器がまた売れるとニコニコ顔である。

                        (終り)

第37回 7・7平和集会を開催

    第37回 7・7平和集会を開催


 7月7日(日)北海道自治労会館において、第37回7・7平和集会が開催されました。日中友好協会札幌支部はじめ宗教団体や平和教育者など30団体で実行委員会をつくり開催、124人が参加しました。

 コロナ禍によって3年ぶりの開催でしたが、ロシアのウクライナ侵略と、それに乗じて憲法を改正して軍備を増強し、さらには核兵器を共有すべきとの声まで上がるさなか、「平和外交か、それとも戦争できる国か」を問う極めて重要な参院選真っ只中での開催でした。

 講演は室蘭工業大学大学院の清末愛砂教授による「ロシアによるウクライナ侵攻・日本国憲法は無力なのか」と題して、約1時間半にわたっての講演でした。(以下、講演内容の一部を紹介します)

 憲法12条について

 「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを乱用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」、公務員は憲法を順守しなければならないし、公権力を縛るものです。さらに立憲主義には、公平な分配をなすという意味も込められています。

 「防衛」「自衛」の

    名のもとに

 ロシアは「防衛」のためと「ファシズム」との闘いを主張していますが、いつの場合も侵略するぞと言って侵略はしないものです。したがって、最近の日本も「防衛」とか「自衛」のための論理がいかに危ういものかの表われです。

 またロシアは、甚大な被害(無差別爆撃・家屋インフラ破壊・性暴力・拷問)を侵しています。それは多くの国際法(国連憲章、ジュネーブ諸条約・国際刑事裁判所・ローマ規定・・)等に違反しているのです。

 「軍事同盟」の怖さ

 ひとつは攻撃の理由として利用される事。二つ目に外交上強い緊張感をもたらす事。そして例えば「台湾有事」や「南西諸島での自衛隊配備を正当化させる可能性」があります。

 9条が支えてきた

  現実的な効果とは

 さて昨今、ウクライナ情勢に便乗して「国民を守るための改憲が必要」という主張が跋扈していますが、他国の主権を犯して軍事侵略することを認めない事にあります。9条を知らないで改憲を言うのはおかしなことです。

 では、9条が支えてきた現実的な効果とは、何だったでしょう。一つには、9条への存在軽視が悪化しているとは言え、日常での平和戦争へのかかわりを出来るだけ避けてきたこと。不完全でも民主主義・文民統制がなされてきたこと。防衛費を抑え込んできたことで医療費や社会保障、教育に予算をまわすことができたこと(公正な分配とは言えないが)。特に大事なことは、平和的生存権とともに外交上(ビジネスの上でも)信頼関係を醸成できたことです。

 今、非常に危険な

  状況に来ています

 今回の参議院選挙以後の三年間、衆議院の解散が無い限り、国政選挙はありません。その間に改憲の動きが一気に進むことは確実です。

 特に、自民党より改憲に意欲を燃やす維新が、筆頭野党になれば、憲法審査会が頻繁に開催され、与野党合議と数の論理で一気に改憲に進む可能性があります。

 自民党の改憲イメージと

  維新、公明党の動き

 自民党の改憲のたたき台素案は、自衛隊の憲法明記と緊急事態条項、そして教育環境の整備と参院合区解消問題の4項目ですが、焦点は最初の2項目にあり、特に緊急事態条項です。つまり「国及び国民の安全を保つために必要な自衛の処置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣に最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する」。維新は緊急事態条項の導入、自衛隊の明記を主張し、公明党は「慎重」から「検討」に舵をきりました。

 あの吉田茂元総理の答弁

 1946年帝国議会衆議院本会議において、共産党の野坂参三の質問に対して、このように答弁してしています。

 「戦争放棄に関する本案の規定は、直接に自衛権を否定して居りませぬが、第九条第二項に於いて一切の軍備と交戦権を認めない結果自衛権の発動としての戦争も、又交戦権も放棄したものであります。満州事変然り、大東亜戦争亦然り(中略)

 我が国において如何なる名義を以てしても交戦権は先ず第一、自ら進んで放棄する、放棄することによって全世界の平和の確立に貢献する決意を、先ずこの憲法に於いて表明したいと思うものであります」

 講演はまだ続きますが紙面の関係で割愛します。

 なお、司会進行は北海道教育大学札幌校の本庄十喜准教授(日中友好協会会員)が務められました。清末教授も会員です。

2022年7月1日金曜日

参列者「日中不再戦友好碑」を見学

   参列者「日中不再戦友好碑」を見学

 慰霊祭終了後、参列者が自家用車や徒歩で、苫小牧支部は貸し切りバスで「日中不再戦友好碑」を次々と訪れて見学し、記念写真を撮っていました。

 中国人留学生の皆さん、北海道中国会の参列者の皆さんなどが見学し、郭沫若先生の書を読んだり、裏面の碑建立の経過の文字を読んだりしていました。記念写真もスマホやカメラなどで撮っていました。

 左から中国人留学生の黄銘君さん、張文強さん、院生の李光照さん、運転手役の小川理事長、6月中国から北大法学部客員研究員の李雯静さん。

生き返った「日中不再戦友好碑」

  生き返った「日中不再戦友好碑」

      文字塗装を行う

    日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫


 今年の第57回中国人殉難者全道慰霊祭で、前から懸案であった碑文のかすれを直すことが出来ました。 

 私と斎藤圭二さんで、随分前からこの碑文のかすれを直す方法を相談し、一旦は自分たちで塗料を買ってやろうと決めたが裏面の建立の経過の部分などは手に負えないと判断し、専門の塗装業の人に頼むことにしました。

 建立50周年記念の烈士園大改修を引き受けてくれた小樽市塩谷の住友建装に相談すると、実地検分のあと、引き受けてくれました。

 6月20日(月)余市太極拳の会の皆さんが、草取りをした日に文字塗装も行われて、作業をつぶさに見ることができました。小さな文字は小さな筆で丁寧に塗っていく様子を見て、やっぱり専門家に頼んで良かったと痛感しました。

 翌日、仁木町役場に行ったついでに昼近く烈士園に行ってみると、ちょうど作業が完了したところで、一緒に検分しましたが、鮮やかに生き返った碑文に胸が熱くなりました。

 正面の「日中不再戦友好碑」は「大谷瑩潤師」の直筆です。左面には郭沫若先生直筆の「発展伝統友誼 反対侵略戦争」の対句が刻まれ、落款もあります。この郭沫若先生の書を入手した経過は第22回慰霊祭の栞に載っています。

 仁木町に来たら、皆さん、寸暇を惜しんで中国烈士園に立ち寄ってください。お願いします。


支部理事会を開催

 支部理事会を開催


 6月8日、札幌支部は、今年もコロナ禍のため、総会を開催せず、支部理事会を開催し、昨年度の活動のまとめと決算、今年度の活動方針と予算について討議し、決定しました。

 昨年も今年度もコロナ禍で十分な活動ができずにいますが、中国人殉難者全道慰霊祭や室蘭の10・9中国人殉難者慰霊の集いなどを開催することや中国百科検定の実施などを決めました。

 新年度の役員については、次のように決定しました。

 理事長   小川勝美

 副理事長  三木ふみよ

 事務局長  影浦貞宏

 理事    重本雅江

 々     旗手繫雄

 会計監査  菅原健太

 々     菊地三郎

第57回中国人殉難者 全道慰霊祭を開催

    第57回中国人殉難者全道慰霊祭を開催

6月26日(日)午後1時30分から仁木町民センターにおいて、第57回中国人殉難者全道慰霊祭を74人が参列し開催しました。

 浄土真宗大谷派北海道教区北第3組5か寺(教照寺、正念寺、浄秀寺、宝泉寺、宝海寺)の住職の読経で始まり、読経のなか参列者が順次焼香しました。

 続いて、地元仁木町の佐藤聖一郎町長が慰霊のことばを捧げました。中華人民共和国駐札幌総領事館の劉亜明総領事の追悼のことばを慰霊祭事務局の鴫谷節夫事務局長が代読しました。

 鈴木直道知事などの弔文報告が行われました。

 慰霊祭世話人を代表して、専修大学北海道短期大学の寺本千名夫元学長が、今年の慰霊祭を取り巻くロシアのウクライナ侵略等に触れながら主催者挨拶をしました。

 在日華僑を代表して、北海道科学技術者連盟の呉敦顧問が戦時中の中国人強制連行などの歴史に触れご挨拶されました。

 続いて、中国人留学生・研究生が紹介され、挨拶しました。

 北海道大学中国留学人員友好聯誼会の黄銘君さん、張文強さん、室蘭工業大学中国人留学生学友会の趙岩さん、張恒さんが、それぞれ強制連行・強制労働等に触れながら挨拶しました。北海道大学法学部客員研究員の李雯静さんは「6回目の参列です。日本と中国の友好の懸け橋になります」と挨拶し、法学研究科大学院生の李光照さんが挨拶しました。

 続いて、地元仁木町議会の宮本幹夫副議長が歓迎の挨拶をされました。

 最後に、慰霊太極拳を鴫谷節夫道連会長が表演しました。

                                   5か寺の住職の読経
         世話人を代表して主催者挨拶をする寺本千名夫元学長
            華僑華人を代表して挨拶される呉敦さん

2022年5月24日火曜日

日中国交回復3000万署名と「文化大革命」

  日中国交回復3000万署名と「文化大革命」     

                    劉連仁さんの思い出(16)

      日中友好協会北海道連 会長 鴫谷 節夫


 60年安保闘争の高揚を受け、「中国封じ込め反対日中国交回復」を求める運動が広がってきました。

 1964年1月、フランスが中国との国交回復したことにより2月には「各界代表25氏のよびかけ」が発表されました。それは次の三点を日本政府に要求するものでした。

①中華人民共和国との国交を即時回復し、貿易・経済・文化の交流を拡大すること。②日台条約を破棄し、台湾との不正常な関係を清算すること。

③中華人民共和国の国連における正常な地位の回復のために努力すること。

 このよびかけは広範な国民的支持を得て、「日中国交回復3000万署名」が始まり、翌1965年2月には「日中国交回復推進連絡会議」が結成され、地方にもこのような組織が広がってきました。

 日中道連と小樽支部も丁度このような日中友好運動の全国的高揚と連帯して、仁木町に実に壮大な「中国烈士園・日中不再戦友好碑」を建立することができたと考えます。

 しかし1966年は、2月から3月にかけて三ヶ国訪問を行った日本共産党代表団が最後に毛沢東との会談で共同コミュニケを破棄される事件が起きています。7月には毛沢東談話で日本共産党を主敵の一つとする「四つの敵」論が定式化しています。8月には毛沢東が紅衛兵を謁見し、紅衛兵運動が全国に広まります。翌年1月には紅衛兵が日本共産党を攻撃します。もし仁木町の友好碑建設計画が一年遅れていたらと思うとこの絶妙なタイミングは中国人殉難者の思いがこもっていると考えます。 

 フクシマから11年 ~被災地と被災者の現在~ 

  青年法律家協会北海道支部主催

 2022憲法フェスティバル

         フクシマから11年

 ~被災地と被災者の現在~ 


  4月23日(土)かでる2・7において、青年法律家協会北海道支部主催の2022憲法フェスティバルが開催され、4階大会議室にスペースを開けて約50人が参加、オンラインで約百人が参加しました。

 吉田玲英支部事務局長は、講師の青木さんは札幌北高時代の同級生などと紹介し開会挨拶をしました。

 「いないことにされる私たち」と題して講演に立った青木美希さんは、北大後入社したタイムスは半年で潰れ、道新に移り、約百億円もの「道警裏金問題」を取材し、取材班で菊池寛賞、新聞協会賞などを受賞したことを述べ、これらの取材活動から朝日新聞にスカウトされたことを自己自己紹介しました。

 安倍首相が「アンダーコントロール」などと述べたが、福島第一原発の被害は、今年1月相馬沖で水揚げされたクロソイから1400ベクトルのセシウムが検出され、国が出荷制限を指示するなどいまも被害が続いていると告発しました。また、ウクライナの事例もあげ原発は戦争で攻撃対象になる。世田谷区長の言葉を引用し「また事故が起こる国に」などと講演しました。

   福島伊達市で15歳のわかなさんは午前中学の卒業式、午後自宅にて地震に、山形に避難後北海道にあった被災の体験を話す。地震後福島から札幌厚別区に避難した宍戸隆子さんは避難者同士の助け合いのために「桜会」という自治会活動などを報告しました。

  田中貴文支部長がウクライナや平頂山事件などをあげながら閉会挨拶しました。


 真珠湾攻撃から 東京大空襲・広島・長崎へ

  真珠湾攻撃から

   東京大空襲・広島・長崎へ

          ❘敵基地攻撃能力保有の末路❘(中)

              日中友好協会道連会長 鴫谷 節夫


 「日本海軍の敵基地攻撃能力とはどんなものか」

 真珠湾を攻撃した「大日本海軍最精鋭の機動部隊」は「赤城・加賀・蒼竜・飛

竜・翔鶴・瑞鶴という六隻の航空母艦を中心に、比叡・霧島の戦艦、利根・筑摩の重巡洋艦、九軍神で有名な特殊潜航艇をつみこんだ五隻の伊号潜水艦など三一隻の編成であった。

 真珠湾内の米戦艦群と軍事施設を直接攻撃した第一次攻撃隊は一八三機第二次攻撃隊は一六七機で、いずれも零式艦上戦闘機(零戦)に援護された九七式艦上爆撃機からなるものであった。

 日本の最後通牒が米側にとどけられたのは日本の攻撃が始まってから一時間もあとで、全くの「だまし打ち」、防戦のしようもなく大きな被害をうけた。撃沈戦艦四隻、撃破戦艦四隻巡洋艦三隻、破壊された飛行機二三一機、死傷者は軍人三六八一名、民間人一〇三名にのぼった。

 「支那事変戦記 海軍航空戦 海軍中佐 阿部信夫編著 昭和十四年六月二十八日発行 大日本雄弁会講談社」

 この本のはじめの方に自序がある。

 

 本書は我が海の荒鷲に捧ぐる感謝感激の記念帖である。同時に又、世界大戦乱の前夜を思わしむ現下の危局に際し、我が一億同胞に向かって打鳴らす航空国防強化の警鐘でもある。

 さきに「海の荒鷲奮戦記を普く江湖に贈ったのは、まだ事変も初期、昭和十二年の暮れ、敵の首都南京が陥落したばかりの時であった。爾来、聖戦ここに満二ヶ年になんなんとし、今や硝煙支那大陸を掩い、海鷲四百余州をその鵬翼下に収るに至ったわけである。

 かくて前書も亦ここに其の面目を全く一新して再び読者と相見ゆるに至った。


 こうして出版されたこの本は337頁の大部なもので、付録の「海の荒鷲空爆撃墜一覧表」も昭和十二年八月十四日から十四年五月三十一日までの出撃の詳細な記録が二十三頁にわたってまとめられている。

 日本全土の基地から出撃する「渡洋爆撃」も上海・南京はもとより昆明、成都、重慶、蘭州まで空爆しているのである。日本海軍航空隊はこの実戦を通して真珠湾基地攻撃能力を保有した。このためどれほど多くの国税が費やされたことか。どれほど多くの中国人の生命・財産がうばわれたことか。

          (つづく)

第8回実行委員会

  第8回歴史・人権・平和基金(三菱マテリアル基金)記念碑建立実行委員会は、3月8日に開催され、三菱マテリアルから提起された3か所の候補地について検討。ゴールデンウイーク明けに、美唄の現地を視察することになりました。記念碑建立の石材業者についても協議し、美唄支部の推薦があるかを問い合わせ、第9回実行委員会で検討することになりました。

『四、建立した場所と除幕式』

 『四、建立した場所と除幕式』

 「中国烈士園 日中不再戦友好碑建立の経過

   在余市郡仁木町共同墓地内」より      

                  劉連仁さんの思い出(15)

           日中友好協会北海道連 会長 鴫谷 節夫


 前回に続き引用します。~(建立した場所)~

 建立した場所は函館本線二木駅より一粁程離れた、風光明媚な果樹園に囲まれ、はるか日本海が望まれる丘の上で、仁木町共同墓地内にあります。土地は仁木町より無償で660平方米(200坪)提供され、間口一〇米、奥行二〇米、高さ一・五米の石垣を築き、碑石は高さ五米の大理石、碑の前の広場は玉石を敷きつめてあります。又今日までニ回にわたって補修を行い、周囲に植樹しました。

 ~(除幕式)~

 昭和四十一年十月二十九日、中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会会長大谷瑩潤氏を迎え除幕式記念慰霊祭を行いました。この日実行委員会役員をはじめ各界代表二百余名列席し、小樽仏教会六十名の僧侶の読経の中でしめやかに法要が行われ、とくにこの日小樽仏教会会長泉勢誠氏より毎年の慰霊祭に協力奉仕することが発表され、今日までつゞいております。又毎年の慰霊祭は七・七盧溝橋事件を記念して全道規模で行い、特に後志管内二十市町村が積極的に協力参加されていることは、全国的に見ても注目すべき事であります。

 尚この中国烈士園「日中友好不再戦碑」には、昭和二十年の春、小樽市の港湾で強制労働で犠牲になった五名の殉難者も合葬してあります。

 ◇碑の表面題字は大谷瑩潤氏の筆で、裏面は郭沫若氏が中国より墓碑銘として寄せられたものであります。




 一九六五年十一月十日

     為記念 郭沫若

      中国殉難烈士


「日本中国友好協会小樽支部輝く十五年の歩み」に次のように書かれています。

 

 この碑の建立は支部創立以来最も大きな事業であって、一年有余の調査の結果各界代表八〇名によって実行委員会を構成し、特に前年訪中した小樽経済友好視察団に参加した方々の協力は非常に大きなものがありました。

 

 仁木町の「中国烈士園・日中友好不再戦碑」は全国に例を見ない壮大なものです。直後に勃発した「文化大革命」と対峙し、その本質を明らかにし、北海道で中国人殉難者慰霊祭の輪を広げて伝えていく思想闘争が必要になっていました。

                 (つづく)

 真珠湾攻撃から 東京大空襲・広島・長崎へ

  真珠湾攻撃から

   東京大空襲・広島・長崎へ

      ❘敵基地攻撃能力保有の末路❘(上)

              日中友好協会道連会長 鴫谷 節夫

 「12月8日と シンガポール陥落」

 昭和16年12月8日、日本海軍の機動部隊が極秘裏にハワイ島の米軍基地に接近し、航空機による奇襲攻撃を行った。このとき私は国民学校入学直前で何も覚えていないが、どういうわけか12月8日というと寒い天気の早朝、稲刈りが済んだ田圃の落穂に霜が降りて、それに陽が当ってキラキラ輝いている情景が浮かぶ。

 翌17年に一年生になって間もなく、学校でシンガポール陥落のお祝いというものが配給になった。軟式のテニスボールのようなものだったが数が足りない。くじ引きになって、くじ運の悪い私は当然貰えなかった。見たところ粗末なゴムで、そんなに欲しいとも思わなかったが、お祝いだから全員に一個づつ当たるのが当然だと思っていたので、今でも思い出すと腹が立つ。

  「ルーズベルトの敵討ち    4月18日日本初空襲」

 この初空襲についてはなんの記憶もないが、のちに書かれたものを見ると、アメリカ軍の「通り魔にも似た奇襲爆撃」であった。空襲による被害者は、死者五〇名、負傷者四〇〇名以上、家屋約二〇〇戸全半壊などであった。

 最近入手した「日本大空襲『実行犯』の告白」によれば、この日本初空襲という無謀な作戦は、ルーズベルトがアーノルドに命令したものである。「その空襲に対し、ルーズベルトは日本への報復を強く求める。『日本本土を爆撃する手立てを一刻も早く考えよ』と檄を飛ばし、作戦計画の立案を命じていた。航空軍は国のために貢献できることを示さなければならなかった。復讐心からルーズベルトは早急に結果を求めていたがアーノルドは頭を悩ませたという。」 (新潮文庫)

『三、企画と建立の経過』

 『三、企画と建立の経過』

 リーフ「中国烈士園日中不再戦友好碑建立の経過             

     在北海道余市郡仁木町共同墓地内」より      

                  劉連仁さんの思い出(14)

          日中友好協会北海道連 会長 鴫谷 節夫


  前回に続いて、標記のリーフより次のとおり引用します。

 

 小樽支部は、田浦事務局長の報告をもとに、本部及び道連と連絡をとりながら友好碑建立の企画に入りました。とくに企画するにおいて特記しなければならないことは、高木仁木町長の厚意ある協力であります。「私はかって戦争で中国へ行ったことがありましたので、この役場に勤めてから今日まで、大江鉱山の殉難者のことがいつも気にかけてきましたが、このたび日中友好協会の友好碑建立の趣旨を聞いて、地元町長としてだけでなく、私個人の意志としても積極的に町議会にはかり、立派な碑を建てて犠牲者の霊に報えたいと思います。これについていろいろ困難な問題もあるでしょうが、どうかなんなりと遠慮なく相談していただきたい。」

という高木町長の申出でが支部役員を大きく勇気づけました。そしてその後この言葉通り、敷地問題や鉱山側との折衝等に先頭にたってくれました。

 建立実行委員会は中国人俘虜殉難者実行委員会会長大谷瑩潤氏をはじめ、本部・道連役員をふくめ自治体・経済・文化・労働・青年・婦人・民主団体の代表八十余名で構成しましたが、特に協会役員・活動家と訪中した各界の人々が中心的役割を果たしました。これら役員の方々から百四十余万円の浄財が寄せられ、又報道関係の協力によってこの友好碑建立をめぐって友好運動の重要性が多くの人々に更に深く理解されるようになりました。

 中国烈士園の構図は藤森茂男常任理事が担当し、設計を仁木町建設課長に委嘱し、工事監督を井上良次委員が責任を持たれました。又この募金活動のなかで、当時の日本鉱業はその後北進鉱業にかわったが、高木町長と実行委員会役員の説明をこころよく納得され、今日まで慰霊祭にも積極的に協力してくれております。 

 次回は烈士園の建設場所と除幕式について触れた個所を紹介します。

           (つづく)

戦地を訪ねて           

 戦地を訪ねて         十勝  長谷部悦子


 私の父は1910年、幕別町の開拓農家の4男に生れ小学校卒業後は農作業の毎日を送りました。20歳の兵役検査で甲種合格すると志願して旭川の第七師団に入営。1932年9月、出動命令が下され父は機関銃隊として満州へ出征しました。10月、奉天周辺の匪賊討伐。11月、北方へ移動。

 日記には「満州の匪賊を無くすには農民の若者に働き甲斐あらしむるのが一番の早道だろう」と書き、貧しく悲惨な志那人の日常に目をむけています。

 12月更に北へ、ソ連国境のハイラル、内モンゴルのコロンバイルへと行軍は続きます。

 日記には「想像していたとおり今年の年越し来年の元旦は歩きながら戦闘しながら送るのだ。明日敵にぶつかる事は確実らしい」と。

 1933年 2月 3月は南下。万里の長城のある熱河省での作戦に組み込まれ、中国正規軍との戦闘になり、長城の関所である喜峰口で攻防が繰り広げられました。

 父はこの戦闘で左上胸部に貫通銃創を受け重傷となり何か所もの病院で治療を受け、約50日後に旭川に戻り陸軍病院に入院しました。7ケ月余りの治療で故郷に帰りましたが、農作業に耐えられる体調にはならず、小学校の近くで文房具雑貨の店を開きました。父はこの店に「受益店森下商店」と名付けました。

 受益店とは、父が負傷した村の名前だったのです。

 日中戦争を研究している簔口先生から今も受益店村があると聞き、2019年3月下旬、先生と妹と3人で受益店村を訪ねました。私は、戦闘は荒野での闘いだったのだろうと思っていたのですが、そこには集落があり人々の暮らしがあり、どれだけの犠牲を強いたのか、と胸の詰まる思いで帰途につきました。90年も前に父が立っていた地は、今はダム湖の下になっていましたが、山容を眺めながらこのあたりかな と思ってきました。

 父はお茶箱一杯に遺品を残しました。軍服、日記、アルバムと一冊の綴りです。父が所属した機関銃中隊長が家族に向けた文書「ご家族の皆様の御子息を預り致す小官として」渡満以降の中隊行動表が送られていました。ガリ版刷りで隊員の様子も詳しくて驚きました。

          あの山容がそうかも知れないと、ダム湖にボートで乗り出し写真を撮りました。

                            左、妹(池田)、私、右、簔口先生

父森下明有が来ていた軍服です。左胸上部に小さな穴が見えます。昭和7年の軍隊日記です。1日も欠かさず記していました。

2022年2月18日金曜日

遺骨送還事業から不再戦碑建立へ   

 遺骨送還事業から不再戦碑建立へ

   協会14回大会特別決議

      道連・小樽支部の取組

        

      劉連仁さんの思い出(13)


         日中友好協会北海道連 会長 鴫谷 節夫


 日本中国友好協会は、九次にわたる中国人殉難者の遺骨送還運動が終結した1964年第14回大会で日中友好不再戦碑を建立しようという特別決議を行いました。

 前に書いたように札幌を訪れた李徳全女史一行は、到着したその日の午後、東本願寺で営まれた「中国人殉難慰霊祭」に出席しています。日本中国友好協会の特別決議「不再戦碑」建立はこの取組と一体をなすもので、以後の日中友好運動の根幹となる重要なものでした。

 日中友好協会北海道支部連合会も本部の特別決議を受けて、道内58事業場すべてに不再戦碑を建立するという方針を決め、その第一号として小樽支部が中心となって後志管内仁木町に建立する運動が始まりました。

 中国烈士園「日中友好不再戦碑建立の経過」というリーフ(日本中国友好協会北海道支部連合会・小樽支部)が残っていますので紹介します。



一、歴史的背景と殉難の経  過(省略)

二、不再戦碑建立までの調  査

 昭和三十八年五月の日本中国友好協会全国大会は、今まですすめて来た中国人俘虜殉難者の慰霊・遺骨送還事業を発展させ、日中友好不再戦友好碑の建立と全国的範囲での慰霊祭を行うことを決めました。協会は、日中友好運動は、かっての中国侵略の反省に立って、一日も早く国交回復を実現させ、日中両国人民永遠の友好を確立するという、素朴なそして厳粛な理念に立って運動をすすめてきた点から言って、それは当然なことであります。

 日本中国友好協会小樽支部(会長秋保充)は本部と道連から提供された一部資料を根拠に調査することを決定し、中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会の協力のもとに資料を集め、又戦後の国際裁判の記録などを参考に本格的な調査に入りました。

 昭和四十年三月中旬、小樽支部より派遣された田浦事務局長(現副理事長)は高橋宏忠氏(現仁木町議)の案内で仁木町役場を訪ね、担当の山口厚生係長(現教育長)に来訪の趣旨を説明したところ、山口氏が高木太市町長(故人)と打ち合わせた結果、こころよく関係資料を全部提出してくれることになりました。

これによって犠牲となった十二名の出身地・到着の年月日・死亡診断書等必要資料が全部そろったので、直ちに山口氏の案内で共同墓地に行き、幸いに火葬場の管理人伊藤孝丸さんの奥さん(先代管理人の娘さん)に会い、子供の頃父親からその箇所を知らされていたことから、一行は残雪のあるところを掘出して無縁仏を確認することができました。


                                    (つづく)           次回は企画と建立の経過

 中国と私    函館 丸尾 隆子(まるおりゅうこ )

  中国と私         函館 丸尾 隆子(まるおりゅうこ )


  私は晩年の母から、「満州に行きたい」と言われたことがありました。しかし高齢の両親を連れて中国に行く自信がなく、応えられなかったことがずっと心残りでした。

 私の両親は旧「満州」からの引揚者です。父は1917年生れ、母は1921年生れ。戦後、私は4人兄妹の末っ子として1955年に生れ、幼い頃から母の戦争の話を聞きながら育ちました。

 母は、18歳頃、姉夫婦を頼って「満州」に渡りました。「満鉄」に就職し電話交換手に。

 役所勤めの父と結婚、2人の子どもに恵まれました。その後父は現地召集されました。

 終戦、母は38度線を越えられず2歳の息子、0歳の娘と北朝鮮の収容所に入れられていました。飢えと寒さで子どもたちは次々と亡くなりました。父が母の収容所にたどり着いた時から逃避行がはじまり、京都舞鶴港に上陸しました。  

 2016年しんぶん赤旗に、「日中友好協会多摩支部・八王子支部 企画

 高句麗遺跡と大連・瀋陽・ハルピンをめぐる中国東北部・平和交流の旅」が載り、躊躇なく申込みました。

 旅行中、「満鉄」の大連の本社だった建物前で、両親の遺影を胸に写真を撮ることができ、長い間の宿題をやっと終えられたようで安堵しました。

 それ以降、同支部が企画の平和交流の旅に2019年まで連続4回参加しました。

 毎回、大学生との交流会も行われています。

 旅行先と大学は次の通りです。

 2016年 

ハルピン・瀋陽・撫順、集安、丹東、大連、旅順、遼寧大学

 2017年 

南京、蘇州、上海、南京林業大学

 2018年

西安、敦煌、陝西師範大学

 2019年 

昆明、元陽、サパ(ベトナム)、雲南大学

 遼寧大学の学生が私たちを「平和の使者」、南京林業大学の学生は「中国と日本の懸け橋になりたい」と発言したことが強く印象に残りました。

 旅行を機に私は、日中の平和と友好のために生きていきたいという思いに駆られています。

                           2020・2・1 春節を祝う会(八王子支部)
                                      雲南大学日本語学科の学生と交流