【運命の糸に導かれて】 劉連仁さんの思い出(3)
日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫
昭和20年7月末、劉連仁さんが明治鉱業・昭和鉱業所から仲間5人で脱走した時、私は遠く離れた岡山県後月郡西江原町の国民学校4年生でした。食料増産が叫ばれ、3年生以上は山奥の開墾と薩摩芋の植え付けに駆り出されていました。
米空軍の空襲で阪神方面は元より近くの岡山は6月29日未明、福山は8月8日深夜焼き払われ、8月6日は夏休み中だったが、数日後全員登校で「広島新型爆弾恐るるに足らず」と訓示され、15日は6年生の兄が昼すぎに帰ってきて、「日本は負けた」と言ったが日頃叫ばれていた「一億玉砕」の話は出ませんでした。
この頃劉さん達仲間は3人になって、羽幌付近を線路沿いに北に進んでいました。北に進んでいけば朝鮮と陸続きで、満州まで歩いて行けるのではないかと考えたそうです。
戦争が終わって9年目、1954年4月私は幸運にも広島大学教育学部に進むことが出来ました。ここには珍しい「高校教員養成課程」がありその中の国語科です。その年3月ビキニ水爆実験があり、55年に第1回原水爆禁止世界大会が広島で開かれました。
1958年2月劉さんは当別で発見され、4月10日白山丸で帰国し、私は同じ4月教員になって俱知安農業高校に赴任しました。
運命の糸に導かれるように劉さんとの接点が生まれ、小林多喜二に憧れて北海道に来た私の、やるべきことの一つが出来たことになります。