第10回中国百科検定が11月27日、札幌会場はかでる2・7で行われました。今回の受験者は3人でした。
札幌会場 かでる2・7の受験者2021年12月14日火曜日
日本政府が妨害した 遺骨送還運動
日本政府が妨害した遺骨送還運動
劉連仁さんの思い出(11)
日中友好協会北海道連 会長 鴫谷 節夫
中国人殉難者の遺骨発掘と祖国への送還運動は、慰霊実行委員会に結集した日本国民の反省と日中不再戦友好を願う全国的な活動でした。
劉連仁さんは1958年4月10日、白山丸で帰国しました。この汽船は日本政府が日本人居留民の帰国を迎えに天津に派遣したもので、同時に中国人殉難者の遺骨148柱を送り届ける第8次送還船でもありました。
日本政府は、極めて人道的なこの遺骨送還にも執拗な妨害を行いました。作家の松田解子さんは次のように証言しています。
1953年には中国人殉難者慰霊実行委員会ができて、私もこれに参加しました。1953年7月に第1回遺骨送還船を出すことになり、私も婦人代表として参加することになったんです。吉田内閣は台湾の強い反対を理由にして、中国への遺骨船は出せないと頑固に拒んだんです。朝鮮戦争反対、ストックホルムアピールの原爆反対の署名運動などで闘っていた民主勢力の一致した力で実現させたんです。
それでも政府は国民に知れないようにこっそり持って行ってくれと舞鶴港までは遺骨を荷物扱いにして、貨物列車のうしろに客車をつけて乗せようとしたため華僑が列車の前で座り込みをして抗議してあらためさせたんです。
吉田内閣は私たちの国の代表で行くんではない、船員待遇なら行ってもいいというの。仕方なしに船員待遇で、黒潮丸で行ったんです。
天津に着くと革命に成功して間もない活気に満ちた中国側の歓迎は大変なものでした。日本で親や息子、兄弟を殺された家族も来ていて号泣して遺骨を受け取られました。私たちは再び侵略戦争は起こしません、本当にもう殺しませんと、私たちを送り出してくれた日本人の誓いを伝えました、。(「日中友好運動の歩み」より)
北海道での中国人殉難者慰霊祭は、今年もこの68年前の誓いを守って取組んでいるのです。
「日中友好運動のあゆみ」の表紙から
【戦後七六年を考える旅】を開催
旅システム・日本中国友好協会共同企画
【戦後七六年を考える旅】を開催
北海道連・札幌支部事務局長 影浦 貞宏
コロナ禍で開催が困難であった平和の旅ツアーが、11月20・21日、20人の参加でようやく開催されました。
今回のツアーは「三船遭難事件」と「劉連仁さんの苦難に満ちた逃避行の地を訪ねる」というテーマでした。(以下、旅システムが用意した福士廣志氏の著書「留萌三船遭難~終戦秘話」を参考)。
昭和二十年八月十四日にポツダム宣言を受諾し、翌十五日天皇陛下はポツダム宣言受入れを表明しました。
その一週間後に起きた悲劇です。
襲撃事件はいずれも八月二十二日未明のことでした。【小笠原丸】
四時二十分頃、増毛別海沖で魚雷攻撃を受け沈没。乗員乗客641人が死亡、61人が生存。
【第二号新興丸】
四時五十五分頃、小平村鬼鹿沖で魚雷攻撃を受ける。この船は民間貨物船を徴用し、特設砲艦兼敷設艦であったため反撃。二番船倉に魚雷を受けるもかろうじて留萌港南岸壁に着岸。乗員・乗客約400人。死亡250人、行方不明150人。3,200人が生存。
【泰東丸】
九時五〇分頃、同じく小平村鬼鹿沖で砲撃を受け沈没。乗員乗客六六七人が死亡。一一三人が生存。泰東丸にいたっては、抵抗の意思がないことを示すテーブルクロスを使った白旗を振っていたにもかかわらず、甲板上の引き揚げ者に大砲や機銃を発射したのです。
降伏文書の調印は同年九月二日、ソ連はこの日を終戦と主張しています。
ソ連は日ソ中立条約の有効期間中に宣戦して日本を攻撃したのであるから、ソ連との戦争に関しては一方的にソ連の側に責任があると思います。
しかし、家永三郎氏は「戦争責任」という著書のなかで「日本の侵略の矛先が二〇世紀初頭以来ロシア=ソ連に繰り返し向けられていた。少なくとも日本人にソ連の対日開戦責任を論ずる道義的資格はない」と、書いています。
私たちは、小笠原丸殉難碑をお参りし銘酒国「稀の酒蔵」を見学、そして食事は海鮮丼を堪能。次に留萌の樺太引揚三船殉難平和記念碑と第二号新興丸記念碑。鬼鹿の三船殉難慰霊の碑と資料館を巡り、ほろしん温泉ほたる館に向かいました。 翌日劉連仁さんが強制連行・強制労働を強いられた今は湖の底となった昭和炭鉱跡地や、連行されて来た時に乗せられたであろうドイツ製の貨車や鉄路、そして当別町の劉連仁生還記念碑などを見て回りました。
当別町の劉連仁生還記念碑を囲む参加者