日本政府が妨害した遺骨送還運動
劉連仁さんの思い出(11)
日中友好協会北海道連 会長 鴫谷 節夫
中国人殉難者の遺骨発掘と祖国への送還運動は、慰霊実行委員会に結集した日本国民の反省と日中不再戦友好を願う全国的な活動でした。
劉連仁さんは1958年4月10日、白山丸で帰国しました。この汽船は日本政府が日本人居留民の帰国を迎えに天津に派遣したもので、同時に中国人殉難者の遺骨148柱を送り届ける第8次送還船でもありました。
日本政府は、極めて人道的なこの遺骨送還にも執拗な妨害を行いました。作家の松田解子さんは次のように証言しています。
1953年には中国人殉難者慰霊実行委員会ができて、私もこれに参加しました。1953年7月に第1回遺骨送還船を出すことになり、私も婦人代表として参加することになったんです。吉田内閣は台湾の強い反対を理由にして、中国への遺骨船は出せないと頑固に拒んだんです。朝鮮戦争反対、ストックホルムアピールの原爆反対の署名運動などで闘っていた民主勢力の一致した力で実現させたんです。
それでも政府は国民に知れないようにこっそり持って行ってくれと舞鶴港までは遺骨を荷物扱いにして、貨物列車のうしろに客車をつけて乗せようとしたため華僑が列車の前で座り込みをして抗議してあらためさせたんです。
吉田内閣は私たちの国の代表で行くんではない、船員待遇なら行ってもいいというの。仕方なしに船員待遇で、黒潮丸で行ったんです。
天津に着くと革命に成功して間もない活気に満ちた中国側の歓迎は大変なものでした。日本で親や息子、兄弟を殺された家族も来ていて号泣して遺骨を受け取られました。私たちは再び侵略戦争は起こしません、本当にもう殺しませんと、私たちを送り出してくれた日本人の誓いを伝えました、。(「日中友好運動の歩み」より)
北海道での中国人殉難者慰霊祭は、今年もこの68年前の誓いを守って取組んでいるのです。
「日中友好運動のあゆみ」の表紙から