参加者は札幌4名、室蘭から2名、函館から1名、そして旅システムから添乗員として青木久美子さんの総勢8名のコンパクトな旅でしたが和気あいあいの楽しい旅でした。日中友好協会札幌支部から小川勝美理事長と事務局次長の私影浦貞宏が参加しました。
出発当日札幌は氷点下2度、到着地の桃園空港はプラス18度。片側4車線のラッシュアワーに見舞われながらようやく初めての夕食会。まずお互いの自己紹介。
「金爪石黄金博物園」と結局使用されなかった太子賓館を見学
2日目は、1890年鉄道橋工事の作業員が、渓流から砂金を発見、1893年九份で金鉱を発見。1895年台湾統治国となった日本政府が簡単に言えば採掘し持ち帰る。
当時のトロッコや線路、一部採掘現場が残され、高級幹部が居住した四連棟を見学。そして後の昭和天皇が視察に来られるために建てられた「太子賓館」はゴルフの練習場や弓道場があることから、当時としてはいかに立派な建物であったか想像できます。しかし、結局は使われなかったそうです。
「千と千尋の神隠し」のモデルと言われる「九份」と天燈飛ばしの十分を観光
九份の茶房で本格的なウーロン茶を体験。赤い提灯が居並ぶ夜でなかったのが少し残念でした。その後日本の統治時代、石炭を運ぶために敷かれた「平渓線」瑞芳駅から汽車に乗ってランタン(天燈)飛ばしで有名な「十分」へ。電車は満席で立っている客もいましたが私たちが乗り込むと若い人たちが立ち上がって席を譲ってくれ、お蔭で全員が座ることができました。さて天燈飛ばしですが、清朝道光時代この地は盗賊が多く、偵察に赴いた青年が盗賊が去ったことを知らせるために揚げたとか。今は各々が天上の神に願い事を書いて届けます。私たち一行の中には「〇〇はすぐ辞めろ」とか、もっと過激な願い事を書いた人もいたようです。
中山公園では日本の植民地時代の歴史見分
中国や台湾に行くと「中山〇〇」という地名があります。中山は国父孫文の号で孫中山が一般的とか。公園内には日本海軍の通信施設の防空壕や日本軍忠霊塔が保存されていましたが、現地ガイドの陳さんによると台湾人日本兵が戦地のフィリピンの山中で、終戦も知らず長い間逃亡生活を余儀なくされたが、戦後補償は一切なかったと話されました。
3日目は日本人観光客があまり行かないところも視察
最初に「総統府」を見学。驚いたのは施設内に「農亡国亡」などの旗が展示されていたことです。特にTPPをごり押しするお偉いさんに見せてやりたいと思いました。これは民主進歩党の蔡英文総統になってから展示物が入れ替えられたとのこと。その後「中正記念堂」「白色テロ政治受難者記念碑」「龍山寺」「原住民博物館」「忠烈詞」を見て廻りました。当初から懸念されていた「慰安婦記念館」はやはり工事中で話を聞くことができませんでした。
228記念館では貴重な記録と体験談を
4日目は「故宮博物院」を見学。1949年10月1日に中国共産党が北京で中華人民共和国の成立を宣言したが、故宮などにあった宝物等は蒋介石軍がすでに持ち出し、台湾に運び込んでいたものが
展示されていました。当時台湾に住んでいた人は、日本の敗戦と中国復帰を大喜び、国府軍の到着を待ちわびました。ところが国の重要ポストは大陸の中国人が占め横暴極まるものがあって、民衆の恨みつらみは爆発寸前のところまで来ていたのです。そのような中 2・28事件はほんの些細なことから始まりました。27日夕刻繁華街の露店でヤミタバコを販売していた女性が取り締まっていた外省人の警官に押収されようとしました。生活のために必死になって取りすがる女性を銃床で殴打しました。それを見ていた群衆が抗議、制圧のために発砲し一人を射殺しました。抗議の民衆は台湾放送局を通じて全島に総決起を呼びかけました。結果、国府の援軍が入り鎮圧され、弾圧で死傷した文化人や知識人を含め1万人を超えるとされていますが、正確な数字は今もって明らかにされていません。
1949年5月20日~1987年7月14日戒厳令が布かれ、政府に関する言動は一切禁止、夜間の外出など台湾の歴史上最悪の時代と言われています。
228記念館には日本統治時代の遺品も数多く展示されていました。その中でこんなスローガンが「毎月1日は興亜奉公日・勤労奉仕・資源愛護・大和協力・・・等々」。
ボランティアの張さんから説明を聞き、当時勤労奉仕で塹壕堀などを経験した陳さんの話を聞くことができました。お父さんは台北の公学校の先生(彼ものちに教師)「話は日本語で、名前は日本名」を強要され、彼は福永益次郎。にもかかわらず「日本に悪い感情は持っていません」と話され、少し救われた気持ちになりました。
太子賓館の入り口で
ランタン飛ばし 十分で |