劉連仁さんを語るときに、同じような境遇とされる?小野田寛郎大日本帝国陸軍少尉と横井庄一軍曹のことを思い出します。
陸軍中野学校を卒業後少尉となった小野田氏はその年の1944年12月フィリピンのルバング島に着任しました。それから発見される1974年までの30年間密林に潜んでいました。そのニュースは帰国前から連日報じられました。
その前々年、密林を28年間さまよい続けた横井庄一氏との比較を「日本帝国軍人として最後まで戦った小野田と逃げ回った横井」と、一部で評価分けをした。しかし、これはまったくの見識違いです。小野田氏は「わがルマング島の30年戦「という手記に、「自身は30人以上の島民を殺害した」と証言しています。
殺傷し物資を奪った彼は、島民に山賊として恐れられました。一方横井氏は生きんがためにわずかな食料を闇にまみれて盗み出すというものです。
(帰国後の小野田寛郎氏)
横井氏は赤紙一枚で徴用された軍曹であったのに対し、小野田氏は職業軍人で少尉。帰国後は軍歴を32年間とみなされ(直属の上官の命令が無い限り軍務続行とみなされる)日本政府から100万円の見舞金を贈呈され軍人恩給を受けましたが、見舞金は辞退。が結局義援金と合わせて靖国神社に寄付しています。
その後身内との折り合いが会わず、帰国後結婚した町枝夫人とブラジルに移住し1800頭もの肉牛酪農家になりました。
帰国後、妻の町枝さんは日本会議の女性組織の「日本女性の会」の会長安西愛子氏の後任として就任。また、夫婦とも田母神元航空幕僚長を支持し、慰安婦問題を否定し続けました。
(さて劉連仁さんはどうであったか)
1944年9月中国山東省高蜜県草泊村で突然拉致され、雨竜郡沼田村(当時)にあった明治鉱山の昭和鉱業所に連行。粗末な衣食住と極悪な環境での苦役。翌年の7月、耐えかねて便槽からの脱走。以来、当別町材木沢で発見されるまでの十三年間、食べるものも無く山野をさまよい、時には畑や農家の納屋から盗み出したのもで命を繋ぎました。北海道の冬は冷凍庫よりも寒い日も多く、積雪も背丈を超えることもあります。
(非人道的な国の対応)
そうした中ようやく生き延びた劉連仁さんに対して、東条内閣の時、商工大臣で強制連行の指揮者であった岸信介総理は、こともあろうに「劉連仁は不法入国・不法滞在者」として扱いました。
2001年7月、東京地方裁判で請求金額2千万円を全額認めさせる勝利の判決を得ましたが(日本政府が控訴し、東京高裁、最高裁で逆転敗訴)、その前の年の9月劉さんは87歳で亡くなりました。
藍綬褒章・勲六等単光旭日章を授与された小野田寛郎氏と何故このような差になるのでしょう。理不尽の何物でもありません。
せめて私たちが、至らない過去と現在の政治家になり代わり、花の一輪でも手向けたいと皆様をお誘いしました。 (影浦記)
劉連仁生還碑と長男の劉煥新さんと孫の劉利さん(2015年)