10月19日札幌エルプラザホールで、山田火砂子監督の映画、「望郷の鐘 満蒙開拓団の落日」は午前に、午後からは「母 小林多喜二の母の物語」の上映会が行われました。
現代ぷろだくしょんが中心で、日本中国友好協会札幌支部は窓口としての役割を果たしました。
それぞれ、固定席がほぼいっぱいの参加者でした。
それぞれの映画の上映に先立ち、山田火砂子監督が挨拶しました。また、山田監督は新しく「日本初の女医❘荻野吟子の生涯」を映画化しようとしていることを紹介し、製作協力券への特段の協力を呼びかけました。
18日にはこの「荻野吟子の生涯」の映画化について函館で記者会見を行い、翌日の新聞に大きく報道されました。
2015年の望郷の鐘の上映後に、札幌プラザなどで「ソ満国境❘15歳の夏」が上映されました、この映画になった15歳の夏を体験した、小貫雅夫さんと満蒙開拓団の落日の山田火砂子監督が、「望郷の鐘」と「母」の合間を利用し当初の予定時間を超えて対談しました。
山田監督はこれまでに日本で初の孤児院を作った福祉の元祖といわれる石井十次の生涯を描いた「石井のとうさんありがとう」や障害児教育に生涯を捧げた石井亮一・筆子を描いた「筆子 その愛」など弱者や障害者、女性の地位向上と権利獲得のための作品を数多く世に送り出しています。
一方、小貫雅夫さんは、1938年満州新京(今の長春)に移り、新京第1中学校3年の45年5月、ソ満国境東寧の報国農場へ勤労動員されました。後で分かったことですが手薄になった国境守備の囮兵の役割も負わされたようです。
8月9日のソ連侵攻が始まり、関東軍などの兵士たちは「戦争が始まったぞ❘」と言って我先に逃走しました。
小貫さんや満蒙開拓団の皆さんはそんな中、必死の逃避行をされていたのです。
満蒙開拓の人々も「途中で歩けなくなった子どもをやむなく養子として中国人夫妻に託し、ようやく汽車に乗れた時にも、ブラインドを下げろと命令されました。
山田監督もおっしゃいました。東京でも大空襲跡を見せないためにブラインドを下ろさせたと。お二人は心から戦争に怒っていました。
小貫さんは、戦後、北海道大学文学部哲学科を卒業、牧師となりました(日本聖公会・北海道教区司祭)。
札幌市中央区で教会の牧師をされています。
小貫さんは以前旭川で牧師をされていた時、三浦綾子さんと親交があり、「母」の本に三浦綾子さんのサインをいただくなど三浦綾子さんご夫妻とお知り合いだったそうです。ここでもお二人の不思議な縁を感じました。
今、山田火砂子監督は、88歳になられて尚元気に映画製作に取り組んでいます。
次回作は、日本で初めて女性医師になり、寒村で医療と婦人解放に人生を捧げた女性を描いた映画「荻野吟子の生涯 」です。12月中に俳優を決め、来年4月5月にせたな町や札幌市でもロケを行い、8月の公開を目指します。
札幌支部に製作協力券があります。
映画上映の間の休憩中に対談する山田火砂子監督と小貫雅夫さん
ソ連軍侵攻後、ソ満国境から逃げ惑うことなどについて地図を広げて語り合う
対談を終えた山田火砂子監督と大貫雅夫さんと影浦事務局長
小貫雅夫さんがインタビューを受けた新聞記事