2019年7月19日金曜日

 第34回7・7平和集会

  日中戦争の先端・盧溝橋事件(1937年7月7日)から82年

    第34回7・7平和集会

    いま、日本を「戦争前夜」にさせないために
      ━日本国憲法の原点を解明━
    講師 笠原十九司(都留文科大学名誉教授)氏が記念講演

 7月7日(日)札幌のかでる2・7の大会議室で、第34回7・7平和集会が開催され180人が参加しました。
 青年法律家協会の今橋直弁護士が、実行委員会を代表して開会挨拶と講師紹介を行いました。
 講師の笠原十九司都留文科大学名誉教授が「いま、日本を『戦争前夜』にさせないために安倍改憲を問う❘平和憲法の原点の解明」と題して1時間50分の記念講演を行いました。
 笠原講師は、Ⅰ、安倍改憲を問うの項を立て、憲法改悪に「命を掛ける」安倍首相と題して、
(1)「憲法9条はGHQが押し付けた」という安倍首相ら改憲派の嘘について、豊富な資料を示して解き明かし、憲法改正への岸信介の執念を継承している安倍晋三氏を明らかにしました。
(2)アメリカが最初に圧力をかけた憲法改正❘岸信介❘安倍晋三の対米従属の「憲法改正}の系譜を解き明かしました。
(3)安倍政権によって埋められた憲法9条の「外堀」❘「戦争前史」から「戦争前夜」への項では、安保関連法の強行可決や共謀罪法の公布など2018年が戦争「前夜」となる危険性を指摘。今年度の軍事費の膨張を示しながら、ハワイの米軍基地を守るために秋田に、グアムの基地を守るために山口にイージス・アショアの配備やF35ステルス戦闘機などをあげ、安倍首相とトランプは同じで嘘が通る政治を強行していると強調し、第4の権力といわれるメディアが、これに追随し危機的状況にあり、司法・最高裁も官邸の意向をくんで判決を出す状況になっていると指摘しましました。
 Ⅱ 幣原喜重郎の外交官としての生き方の項を立て、1、幣原外交の再評価
(1)大正デモクラシーと幣原協調・平和・軍縮外交では、戦前の幣原外交を再評価しました。
(2)昭和ファシズムへと転換させた田中義一内閣❘戦争「前夜」への転換点となった1928年では、首相が外相も兼任し、幣原協調外交から田中強硬外交に転換したことを明らかにし、治安維持法体制の確立や3・15事件などをあげました。
(3)戦争違法化をめざした不戦条約の締結  1928年8月 パリ不戦条約調印をあげ、第1条【戦争放棄】締約国は国際紛争の解決の為戦争に訴えることを非とし、且つ其の相互関係に於いて国家の政策の手段としての戦争を放棄することを其の各自人民の名に於て厳粛に宣言す。(→日本国憲法第九条)
(4)満州事変による幣原外交(第二次)の終焉と十五年戦争 【幣原外交】国際協調、恒久平和、共存共栄、対支那不干渉  1930年4月ロンドン海軍軍縮条約調印 浜口内閣の幣原外相、条約調印と批准に奮闘する 11月浜口首相狙撃され重傷、幣原喜重郎首相臨時代理に就任。31年9月18日、関東軍の謀略により柳条湖事件・満州事変、十五年戦争の開始。
2、憲法9条の原点となった「8月15日」の体験
 8月15日の体験は、後に首相になった幣原が「世界に例のない戦争放棄、軍備全廃」の新しい憲法を起草する原点となった。幣原は自ら口述した『外交五十年』に次のように述べている。
 「玉音放送で無条件降伏を知って唖然とした気持ちで家に帰る電車の中で、三十代ぐらいの男が向かい側の乗客に『俺たちの知らん間に戦争に引き入れられて、知らん間に降参する。怪しからんのはわれわれを騙し続けた当局の連中だ』と盛んに怒鳴っていたが、しまいにはおいおい泣き出した。車内の群衆もこれに呼応して、そうだそうだとワイワイ騒ぐ。私はこの光景を見て深く心が打たれた。彼らのいうことはもっとも至極だと思った」と。
 「私は図らずも内閣組閣を命ぜられ、総理の職に就いたとき、すぐに私の頭に浮かんだのは、あの電車の中の光景であった。これは何とかしてあの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくてはいかんと、堅く決心したのであった。それを憲法の中に、未来永劫そのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり、戦争を放棄し、軍備を全廃してどこまでも民主主義に徹しなければならない。他の人は知らないが、私に関する限り前に述べた信念があった。こんどの新憲法というものは、日本人の意思に反して、総司令部の方から迫られたんじゃありませんかと聞かれるのだが、それは私に関する限りそうではない。決して誰からも強いられたものではないのである。」
 3、幣原喜重郎内閣の組閣 1945年10月9日~46年8月15日 
Ⅲ 幣原喜重郎による憲  法九条発案
(1)憲法9条発案者を めぐる論争に終止符を
 幣原は、46年1月24日にマッカーサーを総司令部に訪ねて2人だけの秘密会談を行い、新憲法に戦争放棄と軍備全廃の条項を入れるよう申し入れ、マッカーサーも意気投合して、二人の間に「密約」が成立し、それが、象徴天皇制、戦争放棄・軍備全廃、封建制度廃止の新憲法三原則を指示した「マッカーサー・ノート」となり、新憲法GHQ民生局の作成した憲法草案の第九条になった。
(2)幣原喜重郎の「遺言」を聞き取った「平野文書」
 幣原が、49年2月から急逝した51年3月10日まで衆議院議長を務めていた時に幣原衆議院議長の秘書役であった平野三郎が54年2月に憲法調査会に提出した「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」(通称、平野文書)平野は、49年から衆議院議員を5期連続努め、66年から3期岐阜県知事を務めた。
 平野三郎は、51年2月下旬、世田谷にあった幣原邸を訪ねて、「戦争放棄条項等の生まれた事情」について2時間にわたって聞き取りを行い、メモをもとに記録をまとめた。その10日あまり後の3月10日に急逝したから「平野文書」は幣原が憲法九条を発案した真実を「遺言」として語ったと言ことができる。聞き取った平野三郎は「幣原先生からは口外しないようにいわれた」のであるが、54年3月自由党憲法調査会(会長岸信介)が発足して、11月には日本国憲法改正案要綱を発表するなど、保守派の改憲論議が活発化するようになった政治状況にかんがみて、あえて「平野文書」を公にすることにした。
 1、幣原喜重郎とマッカーサーの憲法九条の「密約」
 ①幣原喜重郎がマッカーサーと1946年1月24日に秘密会談を持った理由
 「そのことだけは此処だけの話にして置いて貰わねばならないが、実はあの年(昭和20年)の暮れから正月にかけ僕は風邪をひいて寝込んだ。僕が決心したのはその時である。元来、憲法九条のようなことを日本側から言いだすようなことは出来るものでない。ましてや天皇の問題に至っては尚更である。この二つは密接にからみあっていた。実に重大な段階であった。(中略)この構想は天皇制を存続すると共に第九条を実現する言わば一石二鳥の名案である。天皇制存続といってもシンボルということになった訳だが、僕はもともと天皇はそうあるべきものと思っていた。天皇は日の丸を維持する神主のようなものであって、むしろ天皇本来の昔に還ったものであり、そのほうが天皇のためにも日本のためにもよいと僕は思う。この考えは僕だけでなかったが国体に触れることから、仮にも日本側から口にすることはできなかった。憲法は押し付けられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でしか実際にできることではなかった。
 そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出して貰うよう決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自ら国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。したがって誰にも気づかれぬようにマッカーサーに合わねばならぬ。幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からもらったペニシリンというアメリカの新薬を貰い全快した。そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。
②平和を守ることが天命
 僕は軍縮の困難さを身をもって体験してきた。世の中に軍縮ほど難しいものはない。世界が一せいに一切の軍備を廃止する。ここまで考えを進めてきた時に第九条というものが思い浮かんだのである。
③核軍拡競争を阻止し、 核軍縮を可能にする突 破口として日本が自発 的戦争放棄国になる
④幣原とマッカーサーと 意気投合
 僕の案は元帥の立場を打開するものだから渡りに舟というか、話はうまく行った訳だ。
2「憲法九条」の発案者は幣原喜重郎❘「羽室メモ」による証明
 国会図書館の憲政資料室にマイクロフィルムで保管されている。
3、憲法草案をめぐる議会答弁による幣原発案の裏付け
4、マッカーサーの記録による幣原発案の証明
 連合国対日理事会におけるマッカーサー元帥の挨拶などや米国議会での証言など多数ある。
 これらの講演のあと若干の質疑応答が行われた。
 特別報告として、天皇の代替わり❘何が問題かと題して浦瀬佑司(靖国神社国営化阻止キリスト者グループ)氏が約20分の報告行いました。
 最後に、「第34回7・7平和集会宣言」案を札幌支部の三木ふみよ副理事長が朗読して提案。全員の拍手で確認されました。
 笠原先生の「日中戦争全史上・下」セットが10セット完売し、「日本は中国でなにをしたか」は17冊普及しました。また、協会作成の「もうひとつの七夕」のチラシを参加者に配布しました。
 笠原十九司先生は、「憲法九条と幣原喜重郎━日本国憲法の原点の解明━」を出版準備中です。
    実行委員会を代表して青年法律家協会北海道支部の今橋直弁護士が挨拶
             記念講演を行う笠原十九司講師
             特別報告を行う浦瀬佑司氏
「第34回7・7平和集会宣言」案を提案する三木ふみよ副理事長