2021年3月12日金曜日

 日本共産党元衆議院議員 児玉健次さんのご冥福を 心からお祈り申し上げます

  日本共産党元衆議院議員 児玉健次さんの ご冥福を心からお祈り申し上げます。

 今年2月24日、誤嚥性肺炎でお亡くなりになった児玉健次さんは、私たち日中友好協会北海道支部連合会がもっとも大きな活動の柱としている「中国人殉難者全道慰霊祭」に、第28回の1992年から賛同され、2004年の第39回以降、昨年の55回までの長きにわたって世話人を務められました。

 皆さんもご承知の通り国会議員在任中の児玉さんは、長身で穏やかな語り口ながら、ずばりと切り込む質問内容は保守革新を問わず大変定評がありました。

 当時自民党の箕輪登さんが自衛隊のイラク派兵に異論を唱え訴訟を起こした時、社会党の竹村泰子さんら様々な政治的立場の人と共闘したのを思い出します。今、まさに市民と野党の協力で日本を変えようという戦いの原点を見る思いです。

 話を戻しますが、旅システムが主催し、日中友好協会が協賛した「第2回天津烈士陵園参観ツアー」(2012年3月)が企画され、山崎幸さん(当時日中道連会長)が団長、児玉健次さんが副団長、総勢19人の参加で行いました。

 目的は2010年に奉納した中国人殉難者慰霊観音像と一緒に持っていかれなかった厨子を届けるというものでした。

 帰国後児玉健次さんは、日中友好新聞札幌版に「一昨年山崎会長らが奉納した観音像が中央に安置され、納骨館の二、三一六体の遺骨を前に私はしばらく立ちすくみました」。

 そして夕刻の烈士陵園の方々との交流会で、乾杯の挨拶の中で「私の父は一九四四年に天津の華北交通の幹部の一人として、中国の侵略行為に加わりました。私は、その子息として中国の方々にお詫びするために参りました、と話したところ、交流の中で中国の一人の方が、『先ほどの挨拶に感動しました』と声をかけてくださったことが私の心に沁みました」と書かれています。

 こうした人間味溢れる人を失って、実に残念でありません。心からご冥福をお祈り申し上げます。

                日中友好協会北海道連事務局長 影浦貞宏

たかが俳句   竹内 狐草

 たかが俳句       竹内 狐草

 俳句の奥深さは、続けるうちにどんどん深みを増していくようである。気が付けば誘われてから三十数年が経ってしまった。たかが俳句と思っていたのが、今では日常生活の一端となっている。日常の小さなことにも感慨や風情を感じるようになり、限りない句材を見つける愉しさは俳句をしなければ分らないのである。今、日本語は大きく変化しており古来の日本語は消えゆく存在では無かろうか。俳句も時代と共に変化して口語句が多くなって来ている。俳句の本来の抒情は、文語体を駆使することにより生まれるものと思っている。私に残された時間はどの位なのか知る由もないが、俳句を作れるかぎり日本語の美したを追求したいと思っている。

   髪切って颯爽と行く枯葉道    狐草

  三日はや常の暮らしに戻りけり 狐草

  抱かれて木の芽に触るる男の子 狐草

 

 以前、友人から中国旅行を提案されたが飛行機嫌いの私は提案に乗れなかった。でも中国の風物には関心があり、シルクロードや万里の長城・山岳民族等のテレビ映像は出来るだけ見るようにしている。中国が列車や船で行ける所であれば是非行きたいと思っているが、年々行動範囲が狭まって来ているので難しいかも知れない。亡くなった叔父は何度も中国を訪れ、思想は別にして良い所だと何度も話していたことが思い出される。

                  アカシア俳句会主宰

                                                     日本中国友好協会会員

                 

【席占明さん❘  よくも、この時、こんな人が】

 【席占明さん よくも、この時、こんな人が】

    劉連仁さんの思い出(2)

            日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫

 奇蹟を起こしたのは、勿論山東農民である劉さん自身の体力、気力、生活力ですが、救出に関わった袴田さん、木屋路さんなどの行動も奇蹟的です。一歩間違えば、劉さんの命は無かったかも知れないと私は思っています。

 札幌華僑総会の席占明さんは、よくこんな人が、この時、この札幌に居たものだと驚嘆します。席さんが東京華僑総会に送った膨大な通信を見ると、もし席さんが居なかったら劉さんの事件はウヤムヤになってしまったのでないかと感じます。帰国後三十八年目に日本で裁判を起こし、人類史に残る判決を勝ち取ることもなかったでしょう。

 劉連仁さんのことを中国で詳しく最初に報せたのは上海「新民晩報」で、その記事を書いた欧陽文彬(オウヤンウェンビン)さんに詳細な資料を提供したのは席さんでした。日本では、劉さんの生還の翌年1959年2月に早くも「穴にかくれて十四年 中国人俘虜劉連仁の記録」(1959年2月20日初版発行新読書社定価220円)として出版され、劉さんの奇蹟を一気に日本中に広めました。 実は私はこの本の存在を知らなかったのですが「知っていますか」を出版した時、題字をお願いした田嶋光子さん(北海道母親大会連絡会実行委員長)からプレゼントされました。この貴重な資料が手に入ったのも奇蹟だと思います。