2021年9月7日火曜日

劉連仁生還記念碑  当別ツアーの動画を公開 旅システム

    日中友好協会北海道連も制作に協力した旅システムの新しい動画(8月31日公開「当別平和ツアー」が、完成し公開されました。

 会員・準会員の皆様も、ぜひ御覧になってみてください。

 YuuTyubuからと旅システムのホームズからアクセスできます。                                        旅システムを検索してでホームページを開き、下の方にスクロールしますと赤いYuuTyubuのバナーが出てきます。そこをクリックして、当別平和ツアーを選んでクリックしてください。  

「エッ、こんなに大きく!」     劉連仁さんの思い出(8)

 「エッ、こんなに大きく!」

           劉連仁さんの思い出(8)

                             (番外編)

                  日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫

  道新記者Aさんから掲載の予告を聞いていたが、まさかこんな大きな記事になるとは、全くの想定外だった。しかも第一社会面。

 「加害の歴史 直視して」「強制連行の故劉連仁さん 潜伏生活13年」「交流の歴史を回顧録に」と3つ見出しがあった。  

 8月2日早朝6時すぎ、「こんな大きな記事になるとは あなたのおかげ 慰霊祭を支えている仲間が喜びます感謝 お元気で!鴫谷」メールを送った。最後の一言は、Aさんが7月の末に札幌に転勤になったからだ。


 道新小樽支社のA記者は4年前に新卒で小樽にやってきた。夏の「おたる平和展」の取材で知合って、私に話を聞きたいと我が家に来ていろいろ話した。

 ちょうどその年のおたる平和展では、小樽市内の山田さんという方が「物置で戦時中の旧日本軍が発行した冊子を見つけた」と事務局に届けてくださった。

 これがまた大変な代物で陸軍が発行した少年兵募集のパンフレットだった。

表紙は「わが陸軍の少年兵」とあり、「陸軍少年飛行兵学校」などさまざまな兵種の募集内容や給料まで記載されている。発行年月日はなく、発行元もない。

 私はその冊子をA記者に渡して、提供者の山田さんに会って話を聞いたらいいよ勧めた。私が意図したものと違ったが、彼女は見事な記事をまとめ、8月15日の「地域の話題」面を大きく飾ったのである。


 A記者に「回顧録」と命名された「劉連仁さんの思い出」は当初の予定を遥かに越え、何時完結するか見通せない。書き始めて構想(大袈裟だが)が変わったのだ。まだ仲間にも話していないし、了解も取り付けていないが「中国人殉難者全道慰霊祭のあゆみ」のその一部として書いておきたいと切に思うのである。

「日中友好協会」と私 菊地 三郎

 「日中友好協会」と私

                    菊地 三郎


  初めまして、新入会員の菊地です。


 1979年に当時の事務局長猪股さんに勧められてからの読者で、この5月には、小川勝美さんの熱心な説得にあってとうとう会員になってしまいました。


 日中友好は私の人生にとって、ずっと大切なものでした。

 両親と二人の兄は、1945年8月まで満州で生活していました。

 父は「農林省」に勤めていました。かなり高額な給料(内地の数倍)だったと聞きます。比布に住む親に多額の仕送りをしていたことも聞きました。


 1945年初夏、父は31歳で徴兵、満州で初年兵訓練に入ります。

 訓練中の1945年8月15日(終戦)直後「除隊命令」を受けて、10日もたたないうちに比布に戻ります。


 終戦と同時に、27歳の母は二人の子(1歳と3歳)とともに、満州で作った財産を総て捨て日本を目指す1年2か月<帰郷は46年10月>の「逃避行」に入ります。ソ連兵の悪行を恐れつつの逃避行だったこと、中国人(蒋介石)に助けられたことを母は死ぬ(2015年97歳没)まで語っていました。<事実誤認含めて>。(父は1964年50歳で他界します<私は16歳>が、満州時代の詳細を語ることはありませんでした。)


 この様な家庭に育った私が、日中友好に関わるのは普通かなと思います。


 先の戦争に反省しない政府(歴史を修正して植民地支配も侵略もなかったことにしようとする)の下で生きている私たちは、再び政府の行為によって戦争の惨禍のない日本にしなければと強く思います。


 私が、42年前に読者になったこと、今年度会員になったことは、間違っていない人生を歩んでいると勝手に思っています。不勉強の私、人格の陶冶にやや欠ける私ですが、諦めずにお付き合いをよろしくお願いします。

     菊地三郎さんには、新年度から札幌支部の会計監査を務めていただいています。