2021年9月7日火曜日

「日中友好協会」と私 菊地 三郎

 「日中友好協会」と私

                    菊地 三郎


  初めまして、新入会員の菊地です。


 1979年に当時の事務局長猪股さんに勧められてからの読者で、この5月には、小川勝美さんの熱心な説得にあってとうとう会員になってしまいました。


 日中友好は私の人生にとって、ずっと大切なものでした。

 両親と二人の兄は、1945年8月まで満州で生活していました。

 父は「農林省」に勤めていました。かなり高額な給料(内地の数倍)だったと聞きます。比布に住む親に多額の仕送りをしていたことも聞きました。


 1945年初夏、父は31歳で徴兵、満州で初年兵訓練に入ります。

 訓練中の1945年8月15日(終戦)直後「除隊命令」を受けて、10日もたたないうちに比布に戻ります。


 終戦と同時に、27歳の母は二人の子(1歳と3歳)とともに、満州で作った財産を総て捨て日本を目指す1年2か月<帰郷は46年10月>の「逃避行」に入ります。ソ連兵の悪行を恐れつつの逃避行だったこと、中国人(蒋介石)に助けられたことを母は死ぬ(2015年97歳没)まで語っていました。<事実誤認含めて>。(父は1964年50歳で他界します<私は16歳>が、満州時代の詳細を語ることはありませんでした。)


 この様な家庭に育った私が、日中友好に関わるのは普通かなと思います。


 先の戦争に反省しない政府(歴史を修正して植民地支配も侵略もなかったことにしようとする)の下で生きている私たちは、再び政府の行為によって戦争の惨禍のない日本にしなければと強く思います。


 私が、42年前に読者になったこと、今年度会員になったことは、間違っていない人生を歩んでいると勝手に思っています。不勉強の私、人格の陶冶にやや欠ける私ですが、諦めずにお付き合いをよろしくお願いします。

     菊地三郎さんには、新年度から札幌支部の会計監査を務めていただいています。