2016年2月16日火曜日

日中友好協会北海道支部連合会顧問の故山崎幸さんの告別式での小川勝美葬儀委員長の挨拶

 喪主・親族に代わりまして一言ご挨拶を申し上げます。
 皆様には大変ご多用中のところ、また、寒い中、告別式にご参列をいただき、献花もしていただき誠に有り難うございます。また、過分なる献花料やご供物・ご供花を賜り重ねて御礼申し上げます。

  山崎幸さんの略歴などをご紹介し、故人のご遺徳を偲びたいと思います。 
山崎幸さんは、1926年・大正151220日、職業軍人をされていた、お父さんと、助産婦をされていたお母さんとの4人兄弟の4番目、3女として朝鮮の羅南でお生まれになりました。山崎さんが3歳の時、お父さんが病気で亡くなられ、お父さんの故郷、福島に移られました。福島で尋常小学校高等科を卒業後、福島看護婦・助産婦学校に進まれ、1942年に卒業され、新潟県長岡日赤病院に勤務されました。入院患者には、傷痍軍人が大勢おられました。
 そのような情勢の中、1943年には、陸軍看護婦に志願して、中国大連市にありました旧日本陸軍金州病院に勤務され、1944年にチチハルの陸軍飛行隊司令部に転属されました。

 1945815日の1週間前、軍医に呼ばれ「軍人の家族と一緒にハルピン飛行隊に行き、日本へ帰ってくれ」と命令され、ハルピンに向かう途中の14日、ソ連軍に列車を止められ、翌15日に敗戦を迎えました。
 ソ連兵や占領中の日本軍のやり方に反発した中国人の略奪にあうなど、命からがらの逃避行、難民生活をされました。
 日本軍が武装解除されるとすぐアメリカの支援を受けた蒋介石の国民党軍と中国共産党の八路軍との国共内戦が始まりました。そのような中、山崎さんがいる収容所に、19466月、日本人の保健婦桟敷(さんしき)芳子さんと中国人医師の王群先生が来て「手術場で働ける看護婦を探している、1か月でいいから働いてほしい」「生命と衣食住は保障するから看護婦の技術を生かして患者のために働いてほしい」と頼まれ、王先生の野戦病院を手伝うことになりました。
 中国東北地方は、八路軍の支配地域で、八路軍の従軍看護婦となり、広い中国の各地を転戦し、山崎さんが吉林省延吉にいるときの194910月、新中国が成立しました。
 その後、河北省石家荘のカナダ人医師ノーマン・べチューン記念国際平和病院に勤務しました。その後、人民解放軍を除隊されました。
 戦後、中国に渡られた、山崎治夫さんと知り合い、四川省成都の人民病院に勤務していた1958年、結婚されました。喪主を務められている長男の一さんがお生まれになりました。
 中国にいた19537月、日本共産党に入党されておられます。
 1958年の7月、最後の帰国船・白山丸で3人は、日本に帰国。少しの間、福島の実家におりましたが、ご主人の治夫さんが、北海道出身であったため、札幌に移られました。

1959年、社団法人北海道勤労者医療協会に就職されました。
 勤医協では、札幌診療所に看護婦として勤務され、菊水病院の看護婦、婦長代理、19641月移転新築された札幌病院の婦長、総婦長などを務め、東区伏古に勤医協中央病院が新設されると、総婦長として勤務されました。
 1985年に60歳定年で退職しましたが、5年間、嘱託職員として中央病院に勤務されました。

 山崎さんは、日本に帰国直後に日本中国友好協会に入会しました。
 病院勤務の時は、仲間の職員に日中友好協会の入会をすすめ、日中友好新聞の拡大・普及などの活動をされました。
 退職後は、無報酬で、日中友好協会の活動に専念され、「平和の語り部」活動などを熱心に取り組み、札幌支部の事務局長、副理事長などを務め、20074月からは北海道支部連合会の会長を20134月まで務められ、顧問に就任していました。
 200511月には、新中国の建設に貢献されたことから、中国政府の招待で、北京の釣魚台に赴き、梁国防部長から中国の建軍記念日の81日を記念し、中国革命に貢献した人を表彰する8・1勲章を受章されています。この時、中国政府から大歓迎を受け、山崎さんも大変喜んでおりました。
 
1954年から、戦時中の中国人の強制連行犠牲者の遺骨の発掘、送還運動が幅広い道民の寄付金で取り組まれました。第9次の送還で終了しましたが、約10万円の浄財が残り、そのお金で、1961年に中国人殉難者の慰霊観音像を制作しました。
 中国に届けるのに手間がかかっている間に、中国の文化大革命が始まり、観音像は日中友好協会の事務所に保管されたままでした。
 20101月 中国総領事館に山崎さんと私が新年の挨拶に訪れたおりに、仏像を天津の「在日殉難労工記念館」に寄贈したい旨の話をしました。
 総領事が早速天津に連絡を取ってくださり、3月に仏像の受け入れが決まりました。
 文部科学省の文化部に国宝・重要文化財でないことの証明を受け、海外持ち出しの許可も取りました。
 6月の中国人殉難者全道慰霊祭に仏像を持参し、参拝者に披露し、8月には山崎さんと私が、仏像を持参して、北海道庁で記者会見を行いました。
 道新はじめ各紙に大きく報道されました。
 91日千歳をたって北京に着き、9月2日、山崎会長、鴫谷節夫理事長と私が仏像を持参して天津の労工記念館で贈呈式を行って寄贈しました。
 2012年の3月には、天津労工記念館への参拝ツアーを組んで山崎会長など20人で仏像が入っていた朱と黒の漆塗りに金箔をはった2メートルを超える厨子を持参して行き、厨子も納めてきました。
このツアーで北京にある盧溝橋事件の「抗日戦争記念館」を訪れたときには、山崎さんは十分に歩けず、車いすに乗り、鴫谷さんが押して広い館内を見学しました。
 このツアーが、山崎さんの最後の中国旅行になりました。
 
その後も山崎さんは、比較的元気で日中友好協会の活動をしておられましたが、事務所からの帰り、札幌駅で倒れることなどがありました。
 201410月には、長男一さんに付き添われて、2番目のお姉さんを福島に訪ねる旅行を行っています。
その後 勤医協中央病院に入退院などされておりましたが、昨年1月勤医協西区病院に入院し、10月からは、特別養護老人ホーム「もなみの里」に入所され、後輩の看護師の手厚い看護やケアワーカーの介護を受けて生活をされておられました。
2016213日 午前028分「慢性腎不全」でご逝去されました。満89歳でございました。
 
生前山崎さん寄せられました皆様のご厚情に心から感謝申し上げますとともに、今後は喪主であられます一さんやご遺族にお寄せいただきますようお願い申し上げ、葬儀委員長の挨拶を終わらせていただきます。
 本日は、誠に有り難うございました。