2020年1月10日金曜日

記念碑建立予定地(美唄)の 現地視察も行う

歴史・人権・平和基金(三菱マテリアル基金)
   基金管理委員会を5月に東京で開催
  記念碑建立予定地(美唄)の現地視察も行う

1月15日、北京で第2回管理委員会が開催される予定です。
 第3回は東京で5月に開催を計画しています。
 東京での開催の折には、記念碑建立の現地視察も計画されています。
 2018年9月11日、日本中国友好協会北海道支部連合会の理事会を開催し、田中貴文弁護士にお越しいただいて、中国人強制連行の被害者や遺族と三菱マテリアルとの和解内容について改めて説明を受け、北海道における「記念碑」建立について検討いたしました。
 昨年2月19日開催された北海道連の理事会で、田中貴文弁護士の「記念碑」建立プランに基づき討議を行いました。

 3月27日、田中貴文弁護士が所属する札幌おおぞら法律事務所で、歴史・人権・平和基金(三菱マテリアル基金)記念碑」建立・追悼事業北海道実行委員会(第1回準備会)を開催しました。
 7月23日には第2回実行委員会を開催し、美唄市長への要請を行うことなど確認しました。
 9月3日、北海道実行委員会(準備会)は、美唄市の坂東知文市長に、「我路ファミリー公園」内に「記念碑」を設置したいと要請いたしました。
 坂東市長は「受け入れることに問題はないと思うが、関係団体と相談・話し合いをすすめ、早急に決めたい」と回答しました。
 11月20日に第3回実行委員会を開催してきています。
 3月31日には第4回北海道実行委員会(準備会)を開催する予定です。
             写真は美唄市長への要請

協会創立70周年に寄せて

協会創立70周年に寄せて        札幌支部理事 髙橋 忠明 

私は昨年5月に江別の家と土地を売って、「サ高住」といわれる高い ?老人ハウスに転居しました。狭い部屋なので、多くの本や雑誌もすっかり処分してしまいました。
 居間に在った2段の小さな本棚を持ってきましたが、その中に私が北大を退職した年の1993年1月5日の「日中友好新聞」道連版が出て来ました。トップには支笏湖畔にて太極拳の朝練風景と蘭島医院長の日中道連会長の秋保充さんの「年頭所感」と道連役員の連名挨拶が載っています。
 2頁には「新春インタビュー」として藤田昌弘さんが戸谷富之(日中道連名誉会長)さんと輪島隆治(日中道連参与)さんのお二人に聞いている記事があります。
 戸谷先生は北大触媒研究所長をつとめられ、小林英夫先生から城戸幡太郎先生の後の会長を引き受け、仁木町に建てた不再戦友好碑を守って中国人殉難者全道慰霊祭を行い、戦争体験集「再び戦わず」や「知っていますか中国人強制連行」等の本を出し、また、太極拳や中国語の講座を行ってきました。
 札幌の友好団体や労働組合は運動を通しての交流があり、夏の平和行動では40~50団体が実行委員会に加盟して統一行動を展開しました。
 輪島さんは当時の国鉄の機関士で、機労道本、後の「動労」の委員長で、北大経済学部の新川士郎教授に労働講座の講義を頼みに行った。新川教授は「労働運動についてはあなたから学ばなければならない」という返事でしたと語っています。
 ここで私のことを語ります。私は北大教職員組合の書記長を何度か受け持ったことがあり、日本国民救援会にも属していて、白鳥事件や芦別事件の全国現地調査で説明員をしていました。
 日中友好協会から声がかかったのは1991年のビデオ「侵略戦争」と元特務機関員だった永富博道氏の証言を聞く集いを行いました。また、強制連行で強制労働された李万忠さんの証言を聞く会を開き、裁判の支援も行ってきました。この証言を「侵略戦争 加害と被害の証言」の本にまとめ、ブックレットも刊行しました。
私の子供の頃は満州国(中国東北部)で、1年生は延吉、日本が敗戦になった時は敦化在満国民学校6年生でした。そして敦化から吉林、そして少しでも温かい撫順へと移動しました。
 この撫順では平頂山事件も知らないで、その山をかけ降り、西露天掘炭鉱で石炭を盗掘し、それを売って紅い高粱(こうりゃん)を食べ、何とか生きてきました。その責めを私はまだ果たしていませんし、日中友好運動に参画するのが協会創立の翌年に入会した私の責務です。
私の子供の頃は満州国(中国東北部)で、1年生は延吉、日本が敗戦になった時は敦化在満国民学校6年生でした。そして敦化から吉林、そして少しでも温かい撫順へと移動しました。
 この撫順では平頂山事件も知らないで、その山をかけ降り、西露天掘炭鉱で石炭を盗掘し、それを売って紅い高粱(こうりゃん)を食べ、何とか生きてきました。その責めを私はまだ果たしていませんし、日中友好運動に参画するのが協会創立の翌年に入会した私の責務です。
私の子供の頃は満州国(中国東北部)で、1年生は延吉、日本が敗戦になった時は敦化在満国民学校6年生でした。そして敦化から吉林、そして少しでも温かい撫順へと移動しました。
 この撫順では平頂山事件も知らないで、その山をかけ降り、西露天掘炭鉱で石炭を盗掘し、それを売って紅い高粱(こうりゃん)を食べ、何とか生きてきました。その責めを私はまだ果たしていませんし、日中友好運動に参画するのが協会創立の翌年に入会した私の責務です。
私の子供の頃は満州国(中国東北部)で、1年生は延吉、日本が敗戦になった時は敦化在満国民学校6年生でした。そして敦化から吉林、そして少しでも温かい撫順へと移動しました。
 この撫順では平頂山事件も知らないで、その山をかけ降り、西露天掘炭鉱で石炭を盗掘し、それを売って紅い高粱(こうりゃん)を食べ、何とか生きてきました。その責めを私はまだ果たしていませんし、日中友好運動に参画するのが協会創立の翌年に入会した私の責務です。私の子供の頃は満州国(中国東北部)で、1年生は延吉、日本が敗戦になった時は敦化在満国民学校6年生でした。そして敦化から吉林、そして少しでも温かい撫順へと移動しました。
 この撫順では平頂山事件も知らないで、その山をかけ降り、西露天掘炭鉱で石炭を盗掘し、それを売って紅い高粱(こうりゃん)を食べ、何とか生きてきました。その責めを私はまだ果たしていませんし、日中友好運動に参画するのが協会創立の翌年に入会した私の責務です。
 私の子供の頃は満州国(中国東北部)で、1年生は延吉、日本が敗戦になった時は敦化在満国民学校6年生でした。そして敦化から吉林、そして少しでも温かい撫順へと移動しました。
 この撫順では平頂山事件も知らないで、その山をかけ降り、西露天掘炭鉱で石炭を盗掘し、それを売って紅い高粱(こうりゃん)を食べ、何とか生きてきました。その責めを私はまだ果たしていませんし、日中友好運動に参画するのが協会創立の翌年に入会した私の責務です。 私の子供の頃は満州国(中国東北部)で、1年生は延吉、日本が敗戦になった時は敦化在満国民学校6年生でした。そして敦化から吉林、そして少しでも温かい撫順へと移動しました。
 この撫順では平頂山事件も知らないで、その山をかけ降り、西露天掘炭鉱で石炭を盗掘し、それを売って紅い高粱(こうりゃん)を食べ、何とか生きてきました。その責めを私はまだ果たしていませんし、日中友好運動に参画するのが協会創立の翌年に入会した私の責務です。
 私の子供の頃は満州国(中国東北部)で、1年生は延吉、日本が敗戦になった時は敦化国民学校6年生でした。そして敦化から吉林、そして少しでも温かい撫順へと移動しました。
 この撫順では平頂山事件事件も知らないで、その山をかけ降り、西露天掘炭鉱で石炭を盗掘し、それを売って紅い高粱(こうりゃん)を食べ、何とか生きてきました。その責めを私はまだ果たしていませんし、日中友好運動に参画するのが協会創立の翌年に入会した私の責務です。


北海道中国会の 懇親会に参加

 昨年12月1日、北海道中国会の2019年度総会が開かれ、その後の懇親会に、日中友好協会から、小川勝美理事長と影浦貞宏事務局長が参加しました。
 田義之代表の挨拶で始まり、中国領事館の孔多孜玉素甫副総領事の来賓挨拶などが行われ、財界さっぽろの舟本秀男社長の乾杯の音頭で懇談が行われました。
 余興では、北海道大学に留学している女子学生のダンススクール「華」のダンスパフォーマンスが披露され、陶恵栄運営委員長の役員紹介などが行われました。
 閉会挨拶を日本中国友好協会の小川勝美理事長が行いました。
 小川理事長は、中国会の皆さんが、仁木町の中国人殉難者全道慰霊祭に多数参加されていることに感謝し、来年が協会創立70周年であることを紹介しながら、みなさんとともに草の根の日中友好運動を一層すすめる決意を述べました。
                                中国人女子学生のダンスパフォーマンス
               小川勝美理事長が挨拶
             下は参加者全員で記念撮影