2020年1月10日金曜日

協会創立70周年に寄せて

協会創立70周年に寄せて        札幌支部理事 髙橋 忠明 

私は昨年5月に江別の家と土地を売って、「サ高住」といわれる高い ?老人ハウスに転居しました。狭い部屋なので、多くの本や雑誌もすっかり処分してしまいました。
 居間に在った2段の小さな本棚を持ってきましたが、その中に私が北大を退職した年の1993年1月5日の「日中友好新聞」道連版が出て来ました。トップには支笏湖畔にて太極拳の朝練風景と蘭島医院長の日中道連会長の秋保充さんの「年頭所感」と道連役員の連名挨拶が載っています。
 2頁には「新春インタビュー」として藤田昌弘さんが戸谷富之(日中道連名誉会長)さんと輪島隆治(日中道連参与)さんのお二人に聞いている記事があります。
 戸谷先生は北大触媒研究所長をつとめられ、小林英夫先生から城戸幡太郎先生の後の会長を引き受け、仁木町に建てた不再戦友好碑を守って中国人殉難者全道慰霊祭を行い、戦争体験集「再び戦わず」や「知っていますか中国人強制連行」等の本を出し、また、太極拳や中国語の講座を行ってきました。
 札幌の友好団体や労働組合は運動を通しての交流があり、夏の平和行動では40~50団体が実行委員会に加盟して統一行動を展開しました。
 輪島さんは当時の国鉄の機関士で、機労道本、後の「動労」の委員長で、北大経済学部の新川士郎教授に労働講座の講義を頼みに行った。新川教授は「労働運動についてはあなたから学ばなければならない」という返事でしたと語っています。
 ここで私のことを語ります。私は北大教職員組合の書記長を何度か受け持ったことがあり、日本国民救援会にも属していて、白鳥事件や芦別事件の全国現地調査で説明員をしていました。
 日中友好協会から声がかかったのは1991年のビデオ「侵略戦争」と元特務機関員だった永富博道氏の証言を聞く集いを行いました。また、強制連行で強制労働された李万忠さんの証言を聞く会を開き、裁判の支援も行ってきました。この証言を「侵略戦争 加害と被害の証言」の本にまとめ、ブックレットも刊行しました。
私の子供の頃は満州国(中国東北部)で、1年生は延吉、日本が敗戦になった時は敦化在満国民学校6年生でした。そして敦化から吉林、そして少しでも温かい撫順へと移動しました。
 この撫順では平頂山事件も知らないで、その山をかけ降り、西露天掘炭鉱で石炭を盗掘し、それを売って紅い高粱(こうりゃん)を食べ、何とか生きてきました。その責めを私はまだ果たしていませんし、日中友好運動に参画するのが協会創立の翌年に入会した私の責務です。
私の子供の頃は満州国(中国東北部)で、1年生は延吉、日本が敗戦になった時は敦化在満国民学校6年生でした。そして敦化から吉林、そして少しでも温かい撫順へと移動しました。
 この撫順では平頂山事件も知らないで、その山をかけ降り、西露天掘炭鉱で石炭を盗掘し、それを売って紅い高粱(こうりゃん)を食べ、何とか生きてきました。その責めを私はまだ果たしていませんし、日中友好運動に参画するのが協会創立の翌年に入会した私の責務です。
私の子供の頃は満州国(中国東北部)で、1年生は延吉、日本が敗戦になった時は敦化在満国民学校6年生でした。そして敦化から吉林、そして少しでも温かい撫順へと移動しました。
 この撫順では平頂山事件も知らないで、その山をかけ降り、西露天掘炭鉱で石炭を盗掘し、それを売って紅い高粱(こうりゃん)を食べ、何とか生きてきました。その責めを私はまだ果たしていませんし、日中友好運動に参画するのが協会創立の翌年に入会した私の責務です。
私の子供の頃は満州国(中国東北部)で、1年生は延吉、日本が敗戦になった時は敦化在満国民学校6年生でした。そして敦化から吉林、そして少しでも温かい撫順へと移動しました。
 この撫順では平頂山事件も知らないで、その山をかけ降り、西露天掘炭鉱で石炭を盗掘し、それを売って紅い高粱(こうりゃん)を食べ、何とか生きてきました。その責めを私はまだ果たしていませんし、日中友好運動に参画するのが協会創立の翌年に入会した私の責務です。私の子供の頃は満州国(中国東北部)で、1年生は延吉、日本が敗戦になった時は敦化在満国民学校6年生でした。そして敦化から吉林、そして少しでも温かい撫順へと移動しました。
 この撫順では平頂山事件も知らないで、その山をかけ降り、西露天掘炭鉱で石炭を盗掘し、それを売って紅い高粱(こうりゃん)を食べ、何とか生きてきました。その責めを私はまだ果たしていませんし、日中友好運動に参画するのが協会創立の翌年に入会した私の責務です。
 私の子供の頃は満州国(中国東北部)で、1年生は延吉、日本が敗戦になった時は敦化在満国民学校6年生でした。そして敦化から吉林、そして少しでも温かい撫順へと移動しました。
 この撫順では平頂山事件も知らないで、その山をかけ降り、西露天掘炭鉱で石炭を盗掘し、それを売って紅い高粱(こうりゃん)を食べ、何とか生きてきました。その責めを私はまだ果たしていませんし、日中友好運動に参画するのが協会創立の翌年に入会した私の責務です。 私の子供の頃は満州国(中国東北部)で、1年生は延吉、日本が敗戦になった時は敦化在満国民学校6年生でした。そして敦化から吉林、そして少しでも温かい撫順へと移動しました。
 この撫順では平頂山事件も知らないで、その山をかけ降り、西露天掘炭鉱で石炭を盗掘し、それを売って紅い高粱(こうりゃん)を食べ、何とか生きてきました。その責めを私はまだ果たしていませんし、日中友好運動に参画するのが協会創立の翌年に入会した私の責務です。
 私の子供の頃は満州国(中国東北部)で、1年生は延吉、日本が敗戦になった時は敦化国民学校6年生でした。そして敦化から吉林、そして少しでも温かい撫順へと移動しました。
 この撫順では平頂山事件事件も知らないで、その山をかけ降り、西露天掘炭鉱で石炭を盗掘し、それを売って紅い高粱(こうりゃん)を食べ、何とか生きてきました。その責めを私はまだ果たしていませんし、日中友好運動に参画するのが協会創立の翌年に入会した私の責務です。