劉連仁さんが語ったこと
劉連仁生還記念碑を伝える会
顧問・前会長 大澤 勉
劉連仁さんが、当別の山中で保護され、中国に生還後33年振りに当別町を訪れたのは、1991年10月22日でした。
劉さんは駅の人波の中から、文字通り聳え立つ様に姿を現したのですが、見上げる様な長身で、あたりを払う風貌に心うたれたことが深く印象に残っています。日程のメインになったのは町民との歓迎交流会で、司会をしたのは今は亡き山崎幸さんでした。
劉さんは御子息の煥新さんも同席され、参加者からの熱心な質問にも丁寧に答えてくれました。劉さんは山東省の方言を母語としているため、随行した通訳が理解できず、御子息の煥新さんが翻訳して伝えるという、いわば通訳二人を介しての応答になりました。
私は一言も聞き漏らすまいとメモに集中していました。以下はその時の劉連仁さんが語ったことの一部です。(要約文責、大澤)
「昨日、私は沼田の昭和炭鉱跡を訪れた。確かに見覚えが在った。そして何故、私がここまで来なければならなかったのが、誰の責任なのか、と問わずには居られなかった。
こういう歴史の事実を、若い人達はしっかりと知ってほしい。逃亡中は苦しい事ばかり。今思い出しても涙が出る。何度も自殺を考えたが、それでは誰にもわからない。
何としても生き抜いて、家族のいる祖国へ帰り、この事実を伝えねばと心に決めた。
それだけが逃亡中の支えとなった。
帰国して初めて見る息子(煥新)は13歳になっていた。私は再会した家族と、ただ抱き合って泣いた。今、若い人達に伝えておきたい事は、『かっての歴史を未来の為に忘れないで欲しい』ということだ。山の中での13年半の年月は、人間の生活ではなかった。戦争さえなければ・・・戦争はいつも起こす者ではなく、罪なき人、弱き者が犠牲になるのだ。この事だけは肝に銘じてほしいと心から願っている。」
劉連仁さんは、この年を初回としてその後2度にわたって当別町を訪れ、町民との草の根交流を深めましたが、その中から生還記念碑建立の気運が高まり、2002年の完成へと発展していったのです。只、劉連仁さんは2000年9月に、碑の完成を見ることなく逝去されました。本当に痛恨の極みでした。
初来町から30年を経た今でも、あの大きな手の部厚く柔らかい温もりがリアルによみがえるのです。