2022年11月1日火曜日

 しっかり取組んだ 中国人殉難者全道慰霊祭       

  しっかり取組んだ

 中国人殉難者全道慰霊祭 

     劉連仁さんの思い出(18)

   日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫


   「筋金入りの先輩たち」

 当時の日中友好協会小樽支部には筋金入りの先輩がたくさんいて、私の心配をよそに動じる気配がありませんでした。騒ぎ立てることなど全くありません。これは今でも不思議です。しかし心の中では皆一様に、この異常な文革が一日も早く終息することを願っていたのは間違いありません。

 田浦事務局長、本間喜代人理事長を中心に日中友好協会としてやるべきことをしっかりやるという態度で慰霊祭世話人代表の小樽商大学長の参列も絶えることはありませんでした。

 

 「中国側との関係断絶」

 しかし日中友好協会の本部では、一部の毛沢東派幹部が協会の財政から大金を持って脱走し、日中友好協会正統本部をつくり、策動を重ねていました。中国側はこの「正統本部」を日中友好協会と認め、私たちとの関係を断絶しました。

「あるSL労働者の旅路」

 田浦さんの後事務局長を勤めた武田篤朗さんは、1997年12月出版の自伝「あるSL労働者の旅路❘80年かけあるき」の「あとがき」につぎのように書いています。


  私の人生に決定的な影響をもたらした「新中国」は「文化大革命」や「天安門事件」にみられるように大きく変貌し、人々を感動させた当時の「良さ」は昔語りとなった。

 幾千万の人民の血をもって購われた「新中国」の歴史を思う時、あまりにも大きな人民の犠牲に痛恨の念を禁じえない。私は、中国人民との友好を願いつつも政権に対する信頼は、事実と道理にてらして、強い不信感に変わった。

 しかし、四千年の歴史に培われた中国人民の知恵と潜在力は、何時の日か民主的政権を我がものとし、曾ては国際的評価を得た「平和五原則(領土・主権の尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和共存)」に光を当てるであろうと期待される。


 日中国交正常化50周年  記念シンポジウムに参加して                 釧路支部 原 聰

  日中国交正常化50周年

 記念シンポジウムに参加して

     釧路支部 原 聰


   日中国交回復は戦後の国民の願いであり、日中友好協会の創立以来の課題でもありました。

 中国への侵略戦争に始まったアジア太平洋戦争と敗戦の痛切な体験と反省にねざした要求であり、課題でした。当時国民の中に日中国交回復を実現して平和な友好関係を実現することこそ、戦後日本の取るべき道だとの世論があり、国交回復運動を支え、日中国交回復が実現しました。

 釧路支部も労働組合、民主団体、女性団体と共に全国三千万署名に取り組みました。

 国交回復後日中両国民の往来、文化・経済交流などが可能となり活発になりました。

 日本に好感を持つ中国人が多いのに反し、中国に好感を持つ日本人は20%程とのこと。

 今回のシンポジウムは、日本人の嫌中感が広がるなか、日中友好と平和を願って活動する若い世代の思いを聞けたことが成果でした。

日中国交回復50周年によせて     

 日中国交回復50周年によせて

                   岡崎 邦宏


 私が日中友好協会にかかわるようになったきっかけは、井上司先生との出会いがあったからでした。

 当時先生は札幌東高校に在職中で、私も当時白石区内の公立小学校に勤務しておりました関係で、先生に勧められて『日中友好新聞』の購読を始めました。

 その当時は中国の文化大革命やその余波の中で、日本と中国の関係は余りよくありませんでした。私自身も中国の革命文学を読みあさっていた学生時代と比べても、中国とは余り友好的な感情を持てない状態でした。それでも、尊敬する井上先生から勧められたので、『日中友好新聞』の購読を了承して、以来現在に至っております。

 実は、日中友好協会札幌支部理事長の小川勝美氏とは、江別高校の同級生でありました。還暦を過ぎた辺りから、彼も含めて何人かの同級生と年何回か酒を飲んだりミニ旅行をしたりする様になりました。(現在はコロナの関係で中断しています)そんな関係が、私にとっての日中友好協会との第2の接点でした。

 現在の日中関係は香港問題や台湾問題を見ても、自分自身が友好的な心情を醸し出せない状態にいることも事実です。しかしながら、日本と中国は長い歴史の歩みの中で、何を基調にしていくかを考えた時に、『対決・軍備増強』では、課題の解決にはつながらない。『日中友好』でしか有り得ない。今いろいろ苦労の多い時期でも在るが、地道に努力していくことが大切であろう。

「プロレタリア文化大革命の 本質は何か」   

 「プロレタリア文化大革命の 本質は何か」

         劉連仁さんの思い出(17)

 日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫



  「まさか、あの偉大な      毛首席が」

 吹き荒れる「文革」の中、歯を食いしばるような思いの中、中国人慰霊祭に取り組む私たちの最初の課題はこの「文革」の本質を突き止めることでした。日本のマスコミは「文化」というなまえに惑わされて、何か崇高な革命のように讃える論調が圧倒的でした。

 私は紅衛兵の追求とリンチによって自殺した老舎のことを聞いた時、これは間違った運動だと感じたがまだすっきりしません。

 「10・10論文」を

  繰り返し読んで

 歳が明け1967年10月10日、「赤旗」6ページにわたる論文「今日の毛沢東路線と国際共産主義運動」が載りました。私たちは10・10論文と言って夢中になって読み進めました。『二、(2)「文化大革命」の主要な内容は、毛沢東一派の専制支配の確立にある』という部分を繰り返し読んですっきりしました。そして私の中に強固に張り付いていた「毛沢東崇拝」は音を発てて剥がれ落ちました。

 「資料室から、

  コピーを取り寄せる」

 念のためもう一度見ておきたいと思って、中央委員会の資料室にコピーを頼みました。資料室に次のような礼状を出しました。


 うろ覚えだった「10・10論文」に会えて私の記憶が確かだったと嬉しく思っています。

 一九六七年十月といえば「不再戦友好碑」を建立し除幕慰霊祭を行ったのが1966年10月29日のことですから第二回慰霊祭を終えたばかり、大混乱に陥っていた頃です。私は31歳、この論文を夢中になって読みとおした記憶があります。

 「文化大革命の主要な内容は毛沢東一派の専制支配の確立にある」という章を繰り返し読み返す中で、この先も日本共産党とともにこの中国人慰霊祭に取り組んでいく決意が出てきたように思います。

 ありがとうございました。



日中友好協会62年の回想    

 日中友好協会62年の回想

 道連顧問・美唄支部事務局長 供野 周夫


 私が日中友好協会の一員となったのは昭和27年の事で知人のすすめで「三笠でも日中友好協会を組織してほしい」という話であった。日中不再戦を意識している何人かで支部(準備会)を組織した。少ない人数で中国物産展を開催した。一番売れたのは絹張で中国の山水画が描かれていて、飛ぶように売れた。

 昭和30年頃だったと思うけど、北炭新幌内の労組委員長が中国の炭鉱協会の招待で中国に行った。その事を聞いて地区労・社会党の中では「自分も日中に入会していたら中国に行けるかも知れない、という淡い思惑があり、日中友好協会に15人程度入会するので地区労・社会党に副支部長と会計のポストをほしい、というものであった。翌日の総会でもポストの要求で混乱し、道連の猪股事務局長の説得にも聞く耳をもたず、横暴が通らないとみると退散した。結局従来の役員を確認して散会した。

 地区労・社会党の妨害は昭和41年の年にも起きた。AA連帯委員会の一行十数名の中国代表団が三笠に来ることになり、昼食会を、三笠の労働会館の食堂で開くことをを決めていたらしい。2日前になって、昼食会の会場を断って来た。道連からの知らせで、年休を使い会場探しに奔走した。三笠で一番豪華なホテルは快よく応じてくれて一行は喜んで次のスケジュールで会場を去った。昭和42年に美唄に転勤するまでの15~6年は波乱万丈の時代であった。

 美唄に正統本部という分裂組織があったようだが、そのうちに消えて、今、日中友好を口にするのは私たちだけである。

     (とものかねお88歳)

 真珠湾攻撃から   東京大空襲・広島・長崎へ

  真珠湾攻撃から

  東京大空襲・広島・長崎へ

     ❘敵基地攻撃能力保持の末路❘(下)

    日中友好協会道連会長 鴫谷 節夫


 「空の要塞B29と

  こどもの竹槍訓練」

 国民学校3年生になると軍事教練に参加させられた。私は真珠湾攻撃の翌年に1年生になったから3年生は昭和19年4月からである。

 その頃学校では、先生達が校門を入った内側にわら人形を造り、側に竹槍を立て、生徒に朝登校したら先ずその竹槍で藁人形を突いてから教室に入れと命じた。

 3年生の軍事教練は「竹槍訓練」だったので、私は習ったとおり得意になって突いた。しかしみんなが突くものだから、すぐに藁がばらばらになっていつの間にか片付けられた。

 チャーチルとルーズベルトの似顔絵がこの藁人形に取り付けてあったのだ。生徒たちはみんな米英の指導者の名前は知っていた。先生は「日本が戦争に勝つ、相手は名前が悪い、ズルズルベッタリとチャーと散る」と言った。私は先生が言うのだからそんなものかと思ったが、竹槍の方はどうなるのかよく判らない。第一アメリカ兵はどこから来るのか、この竹槍で突いて死ぬのか、こども達で話した結論は、その頃「B29」が話題だったので、きっとB29でやってきて、飛行機故障して落下傘で降りてくる、その下に竹槍を構えお尻の穴目掛けて竹槍で突き上げれば痛い痛いと逃げて行くだろうというものであった。

「焼き尽くし殺し尽くす

 ❘東京・広島・長崎・」

 東京大空襲から広島、長崎につながる米空軍の日本人殺戮爆撃は、日本軍が中国侵略戦争で犯した「三光作戦」を彷彿させるものがある。前掲の「日本大空襲『実行犯』の告白 なぜ46万人は殺されたか」(新潮新書・鈴木冬悠人著)を読みながらつくづく感じたことがある。

 日本国民は「大日本帝国憲法」に変わって世界の最先端を行く「日本国憲法」を手に入れ、これでもう大丈夫、メデタイメデタイとすっかり安心して、敵基地攻撃能力保有から始まりその惨憺たる末路に至る具体的な歴史を知ろうとしない国民になってしまったのではないか。

 バイデン大統領がやってると岸田首相は日本国民に対する何の説明もなくさっさと軍事費倍増を約束した。

バイデン大統領はアメリカ産の高額兵器がまた売れるとニコニコ顔である。

                        (終り)

第37回 7・7平和集会を開催

    第37回 7・7平和集会を開催


 7月7日(日)北海道自治労会館において、第37回7・7平和集会が開催されました。日中友好協会札幌支部はじめ宗教団体や平和教育者など30団体で実行委員会をつくり開催、124人が参加しました。

 コロナ禍によって3年ぶりの開催でしたが、ロシアのウクライナ侵略と、それに乗じて憲法を改正して軍備を増強し、さらには核兵器を共有すべきとの声まで上がるさなか、「平和外交か、それとも戦争できる国か」を問う極めて重要な参院選真っ只中での開催でした。

 講演は室蘭工業大学大学院の清末愛砂教授による「ロシアによるウクライナ侵攻・日本国憲法は無力なのか」と題して、約1時間半にわたっての講演でした。(以下、講演内容の一部を紹介します)

 憲法12条について

 「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを乱用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」、公務員は憲法を順守しなければならないし、公権力を縛るものです。さらに立憲主義には、公平な分配をなすという意味も込められています。

 「防衛」「自衛」の

    名のもとに

 ロシアは「防衛」のためと「ファシズム」との闘いを主張していますが、いつの場合も侵略するぞと言って侵略はしないものです。したがって、最近の日本も「防衛」とか「自衛」のための論理がいかに危ういものかの表われです。

 またロシアは、甚大な被害(無差別爆撃・家屋インフラ破壊・性暴力・拷問)を侵しています。それは多くの国際法(国連憲章、ジュネーブ諸条約・国際刑事裁判所・ローマ規定・・)等に違反しているのです。

 「軍事同盟」の怖さ

 ひとつは攻撃の理由として利用される事。二つ目に外交上強い緊張感をもたらす事。そして例えば「台湾有事」や「南西諸島での自衛隊配備を正当化させる可能性」があります。

 9条が支えてきた

  現実的な効果とは

 さて昨今、ウクライナ情勢に便乗して「国民を守るための改憲が必要」という主張が跋扈していますが、他国の主権を犯して軍事侵略することを認めない事にあります。9条を知らないで改憲を言うのはおかしなことです。

 では、9条が支えてきた現実的な効果とは、何だったでしょう。一つには、9条への存在軽視が悪化しているとは言え、日常での平和戦争へのかかわりを出来るだけ避けてきたこと。不完全でも民主主義・文民統制がなされてきたこと。防衛費を抑え込んできたことで医療費や社会保障、教育に予算をまわすことができたこと(公正な分配とは言えないが)。特に大事なことは、平和的生存権とともに外交上(ビジネスの上でも)信頼関係を醸成できたことです。

 今、非常に危険な

  状況に来ています

 今回の参議院選挙以後の三年間、衆議院の解散が無い限り、国政選挙はありません。その間に改憲の動きが一気に進むことは確実です。

 特に、自民党より改憲に意欲を燃やす維新が、筆頭野党になれば、憲法審査会が頻繁に開催され、与野党合議と数の論理で一気に改憲に進む可能性があります。

 自民党の改憲イメージと

  維新、公明党の動き

 自民党の改憲のたたき台素案は、自衛隊の憲法明記と緊急事態条項、そして教育環境の整備と参院合区解消問題の4項目ですが、焦点は最初の2項目にあり、特に緊急事態条項です。つまり「国及び国民の安全を保つために必要な自衛の処置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣に最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する」。維新は緊急事態条項の導入、自衛隊の明記を主張し、公明党は「慎重」から「検討」に舵をきりました。

 あの吉田茂元総理の答弁

 1946年帝国議会衆議院本会議において、共産党の野坂参三の質問に対して、このように答弁してしています。

 「戦争放棄に関する本案の規定は、直接に自衛権を否定して居りませぬが、第九条第二項に於いて一切の軍備と交戦権を認めない結果自衛権の発動としての戦争も、又交戦権も放棄したものであります。満州事変然り、大東亜戦争亦然り(中略)

 我が国において如何なる名義を以てしても交戦権は先ず第一、自ら進んで放棄する、放棄することによって全世界の平和の確立に貢献する決意を、先ずこの憲法に於いて表明したいと思うものであります」

 講演はまだ続きますが紙面の関係で割愛します。

 なお、司会進行は北海道教育大学札幌校の本庄十喜准教授(日中友好協会会員)が務められました。清末教授も会員です。