「日中不再戦友好碑を再建して」
劉連仁さんの思い出(24)
日本中国友好協会北海道連 会長 鴫谷 節夫
今回は標記の文章が残っていたので、再建の取り組みは後回しにして、それを紹介させて貰います。
日中不再戦友好碑を再建して
小樽支部事務局長 鴫谷節夫
人間は、何故、碑を建てるのでしょうか。
二十一年の風雪にすっかり傷んでしまった「日中友好不再戦碑」を再建する大仕事に取り組みながら、このことを考え続けていました。
戦争が終わってもう四十二年も過ぎた、昔のことにそんなにこだわる必要はないのでは、そんな声が聞こえてきます。ましてや、数百万の大金を投じて再建するとなると、その意義を根本的に考えてみなければなりません。
銭函から石狩へ抜ける途中、手稲に入ってすぐに「史跡、バッタ塚」という案内が出ています。何だろうと思って、一度訪ねたことがあります。かなりの距離を入ったところに記念碑がありました。明治のはじめ、開拓が始まったばかりの頃に、北海道はバッタの大群に悩まされ、放置しては開拓の未来はおぼつかないというので、巨額の金と人力を投じてバッタの卵を取り集め、この地に深い溝を掘って埋めたというのです。記念碑がなかったら、こんなバッタの歴史はだれにもわからないでしょう。
「過去に目を閉ざすものは、現在にも盲目になる」(西ドイツ大統領・ヴァイツゼッカー)のは、何事においてもいえる事です。特に、私たちが犯した過ちに時効はないと覚悟しなければなりません。
しかも、中国人強制連行と虐殺の事実は、それを計画し実行させた勢力とその後輩たちによって、意図的に消され、上っ面だけが華やかな日中交流が盛んです。
一九八七年六月二十八日天候にも恵まれて、盛大に除幕式が行われました。
募金も立派に集まりました。
中国人殉難者全道慰霊祭は二十二回目になりました。
日本中国友好協会北海道連合会に結集する私たちは、ひとりでも多くの人にこの碑のことを広めて行こうではありませんか。
この文章は一枚の紙にワープロで打ったもので何かの原稿にしたものかどうかわかりません。しかし私の記憶では、日中道連の一部に消極論があったことは確かで、それを意識したものであると思われます。