2022年5月24日火曜日

戦地を訪ねて           

 戦地を訪ねて         十勝  長谷部悦子


 私の父は1910年、幕別町の開拓農家の4男に生れ小学校卒業後は農作業の毎日を送りました。20歳の兵役検査で甲種合格すると志願して旭川の第七師団に入営。1932年9月、出動命令が下され父は機関銃隊として満州へ出征しました。10月、奉天周辺の匪賊討伐。11月、北方へ移動。

 日記には「満州の匪賊を無くすには農民の若者に働き甲斐あらしむるのが一番の早道だろう」と書き、貧しく悲惨な志那人の日常に目をむけています。

 12月更に北へ、ソ連国境のハイラル、内モンゴルのコロンバイルへと行軍は続きます。

 日記には「想像していたとおり今年の年越し来年の元旦は歩きながら戦闘しながら送るのだ。明日敵にぶつかる事は確実らしい」と。

 1933年 2月 3月は南下。万里の長城のある熱河省での作戦に組み込まれ、中国正規軍との戦闘になり、長城の関所である喜峰口で攻防が繰り広げられました。

 父はこの戦闘で左上胸部に貫通銃創を受け重傷となり何か所もの病院で治療を受け、約50日後に旭川に戻り陸軍病院に入院しました。7ケ月余りの治療で故郷に帰りましたが、農作業に耐えられる体調にはならず、小学校の近くで文房具雑貨の店を開きました。父はこの店に「受益店森下商店」と名付けました。

 受益店とは、父が負傷した村の名前だったのです。

 日中戦争を研究している簔口先生から今も受益店村があると聞き、2019年3月下旬、先生と妹と3人で受益店村を訪ねました。私は、戦闘は荒野での闘いだったのだろうと思っていたのですが、そこには集落があり人々の暮らしがあり、どれだけの犠牲を強いたのか、と胸の詰まる思いで帰途につきました。90年も前に父が立っていた地は、今はダム湖の下になっていましたが、山容を眺めながらこのあたりかな と思ってきました。

 父はお茶箱一杯に遺品を残しました。軍服、日記、アルバムと一冊の綴りです。父が所属した機関銃中隊長が家族に向けた文書「ご家族の皆様の御子息を預り致す小官として」渡満以降の中隊行動表が送られていました。ガリ版刷りで隊員の様子も詳しくて驚きました。

          あの山容がそうかも知れないと、ダム湖にボートで乗り出し写真を撮りました。

                            左、妹(池田)、私、右、簔口先生

父森下明有が来ていた軍服です。左胸上部に小さな穴が見えます。昭和7年の軍隊日記です。1日も欠かさず記していました。