『三、企画と建立の経過』
リーフ「中国烈士園日中不再戦友好碑建立の経過
在北海道余市郡仁木町共同墓地内」より
劉連仁さんの思い出(14)
日中友好協会北海道連 会長 鴫谷 節夫
前回に続いて、標記のリーフより次のとおり引用します。
小樽支部は、田浦事務局長の報告をもとに、本部及び道連と連絡をとりながら友好碑建立の企画に入りました。とくに企画するにおいて特記しなければならないことは、高木仁木町長の厚意ある協力であります。「私はかって戦争で中国へ行ったことがありましたので、この役場に勤めてから今日まで、大江鉱山の殉難者のことがいつも気にかけてきましたが、このたび日中友好協会の友好碑建立の趣旨を聞いて、地元町長としてだけでなく、私個人の意志としても積極的に町議会にはかり、立派な碑を建てて犠牲者の霊に報えたいと思います。これについていろいろ困難な問題もあるでしょうが、どうかなんなりと遠慮なく相談していただきたい。」
という高木町長の申出でが支部役員を大きく勇気づけました。そしてその後この言葉通り、敷地問題や鉱山側との折衝等に先頭にたってくれました。
建立実行委員会は中国人俘虜殉難者実行委員会会長大谷瑩潤氏をはじめ、本部・道連役員をふくめ自治体・経済・文化・労働・青年・婦人・民主団体の代表八十余名で構成しましたが、特に協会役員・活動家と訪中した各界の人々が中心的役割を果たしました。これら役員の方々から百四十余万円の浄財が寄せられ、又報道関係の協力によってこの友好碑建立をめぐって友好運動の重要性が多くの人々に更に深く理解されるようになりました。
中国烈士園の構図は藤森茂男常任理事が担当し、設計を仁木町建設課長に委嘱し、工事監督を井上良次委員が責任を持たれました。又この募金活動のなかで、当時の日本鉱業はその後北進鉱業にかわったが、高木町長と実行委員会役員の説明をこころよく納得され、今日まで慰霊祭にも積極的に協力してくれております。
次回は烈士園の建設場所と除幕式について触れた個所を紹介します。
(つづく)