中華人民共和国成立72周年祝賀レセプション
ZOOMにてオンライン形式で開催
協会北海道連から小川勝美理事長が参加
9月30日午後3時から中華人民共和国成立72周年祝賀レセプションがコロナ感染症対策を考慮しZOOMによるオンライン形式で開催されました。
参加者は道内各地や東北地域などから、229人が参加し、1台のパソコンの前に5人や6人のところもあり、300人を超えていたかもしれません。 日中友好協会北海道連からは小川勝美理事長が自宅のパソコンで参加しました。
中華人民共和国成立72周年祝賀レセプション
ZOOMにてオンライン形式で開催
協会北海道連から小川勝美理事長が参加
9月30日午後3時から中華人民共和国成立72周年祝賀レセプションがコロナ感染症対策を考慮しZOOMによるオンライン形式で開催されました。
参加者は道内各地や東北地域などから、229人が参加し、1台のパソコンの前に5人や6人のところもあり、300人を超えていたかもしれません。 日中友好協会北海道連からは小川勝美理事長が自宅のパソコンで参加しました。
秋晴れのもと 室蘭で
第29回10・9中国人殉難烈士慰霊の集いを開催
10月3日、秋晴れの下、中国人殉難烈士慰霊碑前で、第29回10・9中国人殉難烈士慰霊の集いが54人の参加で開催されました。内、中国人留学生11人が参列しました。
集いの司会を松本徹さんが務め、参列者全員が起立し、殉難烈士に黙祷を捧げ、実行委員会を代表して、松原剛代表が、慰霊の集い開催の経緯などを話し、政府などの歴史修正主義的傾向を厳しく批判しながら、「あらためて殉難烈士の皆様のご冥福をお祈りし、参列者のご協力をお願いし挨拶といたします」と述べました。
参列者が順次慰霊碑前に設置された祭壇に献花をしました。
3人が慰霊・追悼のことばを述べました。
室蘭工業大学中国人留学生学友会を代表して楊路一さんが挨拶しました。
つづいて、、中国人殉難者全道慰霊祭事務局長の鴫谷節夫道連会長が挨拶しました。次に、撫順の奇蹟を受け継ぐ会の道支部長が挨拶。
協会本部の井上久士会長のメッセージは栞印刷されて紹介されました。
室蘭合唱団「あすなろ」の皆さんによる中国人烈士を悼む「砂に消えた人々」の合唱で集いは終了しました。
日中友好協会北海道連も制作に協力した旅システムの新しい動画(8月31日公開「当別平和ツアー」が、完成し公開されました。
会員・準会員の皆様も、ぜひ御覧になってみてください。
YuuTyubuからと旅システムのホームズからアクセスできます。 旅システムを検索してでホームページを開き、下の方にスクロールしますと赤いYuuTyubuのバナーが出てきます。そこをクリックして、当別平和ツアーを選んでクリックしてください。
「エッ、こんなに大きく!」
劉連仁さんの思い出(8)
(番外編)
日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫
道新記者Aさんから掲載の予告を聞いていたが、まさかこんな大きな記事になるとは、全くの想定外だった。しかも第一社会面。
「加害の歴史 直視して」「強制連行の故劉連仁さん 潜伏生活13年」「交流の歴史を回顧録に」と3つ見出しがあった。
8月2日早朝6時すぎ、「こんな大きな記事になるとは あなたのおかげ 慰霊祭を支えている仲間が喜びます感謝 お元気で!鴫谷」メールを送った。最後の一言は、Aさんが7月の末に札幌に転勤になったからだ。
道新小樽支社のA記者は4年前に新卒で小樽にやってきた。夏の「おたる平和展」の取材で知合って、私に話を聞きたいと我が家に来ていろいろ話した。
ちょうどその年のおたる平和展では、小樽市内の山田さんという方が「物置で戦時中の旧日本軍が発行した冊子を見つけた」と事務局に届けてくださった。
これがまた大変な代物で陸軍が発行した少年兵募集のパンフレットだった。
表紙は「わが陸軍の少年兵」とあり、「陸軍少年飛行兵学校」などさまざまな兵種の募集内容や給料まで記載されている。発行年月日はなく、発行元もない。
私はその冊子をA記者に渡して、提供者の山田さんに会って話を聞いたらいいよ勧めた。私が意図したものと違ったが、彼女は見事な記事をまとめ、8月15日の「地域の話題」面を大きく飾ったのである。
A記者に「回顧録」と命名された「劉連仁さんの思い出」は当初の予定を遥かに越え、何時完結するか見通せない。書き始めて構想(大袈裟だが)が変わったのだ。まだ仲間にも話していないし、了解も取り付けていないが「中国人殉難者全道慰霊祭のあゆみ」のその一部として書いておきたいと切に思うのである。
「日中友好協会」と私
菊地 三郎
初めまして、新入会員の菊地です。
1979年に当時の事務局長猪股さんに勧められてからの読者で、この5月には、小川勝美さんの熱心な説得にあってとうとう会員になってしまいました。
日中友好は私の人生にとって、ずっと大切なものでした。
両親と二人の兄は、1945年8月まで満州で生活していました。
父は「農林省」に勤めていました。かなり高額な給料(内地の数倍)だったと聞きます。比布に住む親に多額の仕送りをしていたことも聞きました。
1945年初夏、父は31歳で徴兵、満州で初年兵訓練に入ります。
訓練中の1945年8月15日(終戦)直後「除隊命令」を受けて、10日もたたないうちに比布に戻ります。
終戦と同時に、27歳の母は二人の子(1歳と3歳)とともに、満州で作った財産を総て捨て日本を目指す1年2か月<帰郷は46年10月>の「逃避行」に入ります。ソ連兵の悪行を恐れつつの逃避行だったこと、中国人(蒋介石)に助けられたことを母は死ぬ(2015年97歳没)まで語っていました。<事実誤認含めて>。(父は1964年50歳で他界します<私は16歳>が、満州時代の詳細を語ることはありませんでした。)
この様な家庭に育った私が、日中友好に関わるのは普通かなと思います。
先の戦争に反省しない政府(歴史を修正して植民地支配も侵略もなかったことにしようとする)の下で生きている私たちは、再び政府の行為によって戦争の惨禍のない日本にしなければと強く思います。
私が、42年前に読者になったこと、今年度会員になったことは、間違っていない人生を歩んでいると勝手に思っています。不勉強の私、人格の陶冶にやや欠ける私ですが、諦めずにお付き合いをよろしくお願いします。
菊地三郎さんには、新年度から札幌支部の会計監査を務めていただいています。
「草の墓標」ついに出た!(新日本出版社 刊)
劉連仁さんの思い出(7)
日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫
六十年安保の山場で「世界」に発表された中国人強制連行事件は、B6判320ページの単行本「草の墓標❘中国人強制連行事件の記録❘」として新日本出版社から刊行されました。
一九六四年三月初版(定価三八〇円)で何判重ねたか不明ですが、相当数普及されたと思われます。
出版の事情は「本書は中国人強制連行事件の記録である」から始まる「まえがき」の部分に次のように明記されています。
本書の内容はその基礎となった「資料」の1%にもならない。その膨大な「資料」は何千何万という日本人民によって集められたものである。従って本書の本当の著者は何千何万という日本人民である。
しかし本書の内容は、中国人強制連行事件の事実のわずかな一部分を現しているにすぎない。一層多くの「資料」と「証言」によって補われることを希望します。
一九六三年十一月
中国人俘虜殉難者慰霊事 業十周年記念全国的慰霊 祭のなかで
中国人強制連行事件資料 編纂委員会
全体は二十六章から成り、劉連仁事件も一章割当てられています。目次は各章の内容が判る見出し・小見出しがあり、興味を持った所から読み始めるよう工夫されています。例示すると、
二二 美唄、夕張地区にお ける闘争
その一 美唄、夕張にお ける中国人連行
その二 中国人の闘争
その三 日本人労働者との 友好
また、基礎的資料はもちろんですが、証言を多く採用し、読みやすくリアルな内容です。
中国人殉難者全道慰霊祭は、今秋第五六回を迎えますが、なぜ私たちが慰霊祭に取り組むのか、この「草の墓標」を再刊普及して、北海道の人々に知って貰いたいと切望します。
(つづく)
「日中友好協会」と私 札幌支部 旗手 繁雄
1965年3月、20代の私は、ひどく緊張して北京の人民大会堂にいました。
当時アメリカのベトナム侵略は、泥沼化し核兵器の使用も考えられていました。 中国平和委員会会長・郭沫若さんの招待で日本原水協代表団(12名)の一員として参加し、最初の会談が人民大会堂でした。
テーマは「アメリカがベトナムで核兵器を使わせないために、日・中両国人民は何をすべきか」でした。
中国9都市の平和・婦人団体や職場で交流し貴重な1ヶ月でした。中国の歴史や文化に触れたこと、何よりも誠実で真剣な多くの人々と話し合いができたことです。
帰国してすぐ「日中道連」を訪ね入会し、56年になります。
訪中の翌年から毛沢東派の「文化大革命」が始まり、日本の民主運動、特に、日中友好協会への攻撃が暴力を伴って行われました。
毛沢東派が作った「日中友好協会(正統派)」へ走った身近な人もいました。それから30年以上「中国から相手にされない日中友好協会」と誹謗される中「日中不再戦」を掲げ、平和を求める中国国民との「真の友好」のために、中国共産党や政府の指導者がどうであれ、地道に運動をすすめてきた日中友好協会の一員であることを誇りに思っています。
いま、南シナ海などにみられる膨張主義的行動にたいし、日本の菅首相は日米共同声明で、自衛隊の強化と共に、台湾海峡で事がおこればアメリカと一緒に自衛隊も出動すると言い、きわめて危険な状況になっています。
いまこそ、日中両国民は力を合わせ「日中不再戦」の声を広げ、アジアの平和を守らなければなりません。
「日中友好協会」の一員として頑張りたいと思っています。