2022年5月24日火曜日

『三、企画と建立の経過』

 『三、企画と建立の経過』

 リーフ「中国烈士園日中不再戦友好碑建立の経過             

     在北海道余市郡仁木町共同墓地内」より      

                  劉連仁さんの思い出(14)

          日中友好協会北海道連 会長 鴫谷 節夫


  前回に続いて、標記のリーフより次のとおり引用します。

 

 小樽支部は、田浦事務局長の報告をもとに、本部及び道連と連絡をとりながら友好碑建立の企画に入りました。とくに企画するにおいて特記しなければならないことは、高木仁木町長の厚意ある協力であります。「私はかって戦争で中国へ行ったことがありましたので、この役場に勤めてから今日まで、大江鉱山の殉難者のことがいつも気にかけてきましたが、このたび日中友好協会の友好碑建立の趣旨を聞いて、地元町長としてだけでなく、私個人の意志としても積極的に町議会にはかり、立派な碑を建てて犠牲者の霊に報えたいと思います。これについていろいろ困難な問題もあるでしょうが、どうかなんなりと遠慮なく相談していただきたい。」

という高木町長の申出でが支部役員を大きく勇気づけました。そしてその後この言葉通り、敷地問題や鉱山側との折衝等に先頭にたってくれました。

 建立実行委員会は中国人俘虜殉難者実行委員会会長大谷瑩潤氏をはじめ、本部・道連役員をふくめ自治体・経済・文化・労働・青年・婦人・民主団体の代表八十余名で構成しましたが、特に協会役員・活動家と訪中した各界の人々が中心的役割を果たしました。これら役員の方々から百四十余万円の浄財が寄せられ、又報道関係の協力によってこの友好碑建立をめぐって友好運動の重要性が多くの人々に更に深く理解されるようになりました。

 中国烈士園の構図は藤森茂男常任理事が担当し、設計を仁木町建設課長に委嘱し、工事監督を井上良次委員が責任を持たれました。又この募金活動のなかで、当時の日本鉱業はその後北進鉱業にかわったが、高木町長と実行委員会役員の説明をこころよく納得され、今日まで慰霊祭にも積極的に協力してくれております。 

 次回は烈士園の建設場所と除幕式について触れた個所を紹介します。

           (つづく)

戦地を訪ねて           

 戦地を訪ねて         十勝  長谷部悦子


 私の父は1910年、幕別町の開拓農家の4男に生れ小学校卒業後は農作業の毎日を送りました。20歳の兵役検査で甲種合格すると志願して旭川の第七師団に入営。1932年9月、出動命令が下され父は機関銃隊として満州へ出征しました。10月、奉天周辺の匪賊討伐。11月、北方へ移動。

 日記には「満州の匪賊を無くすには農民の若者に働き甲斐あらしむるのが一番の早道だろう」と書き、貧しく悲惨な志那人の日常に目をむけています。

 12月更に北へ、ソ連国境のハイラル、内モンゴルのコロンバイルへと行軍は続きます。

 日記には「想像していたとおり今年の年越し来年の元旦は歩きながら戦闘しながら送るのだ。明日敵にぶつかる事は確実らしい」と。

 1933年 2月 3月は南下。万里の長城のある熱河省での作戦に組み込まれ、中国正規軍との戦闘になり、長城の関所である喜峰口で攻防が繰り広げられました。

 父はこの戦闘で左上胸部に貫通銃創を受け重傷となり何か所もの病院で治療を受け、約50日後に旭川に戻り陸軍病院に入院しました。7ケ月余りの治療で故郷に帰りましたが、農作業に耐えられる体調にはならず、小学校の近くで文房具雑貨の店を開きました。父はこの店に「受益店森下商店」と名付けました。

 受益店とは、父が負傷した村の名前だったのです。

 日中戦争を研究している簔口先生から今も受益店村があると聞き、2019年3月下旬、先生と妹と3人で受益店村を訪ねました。私は、戦闘は荒野での闘いだったのだろうと思っていたのですが、そこには集落があり人々の暮らしがあり、どれだけの犠牲を強いたのか、と胸の詰まる思いで帰途につきました。90年も前に父が立っていた地は、今はダム湖の下になっていましたが、山容を眺めながらこのあたりかな と思ってきました。

 父はお茶箱一杯に遺品を残しました。軍服、日記、アルバムと一冊の綴りです。父が所属した機関銃中隊長が家族に向けた文書「ご家族の皆様の御子息を預り致す小官として」渡満以降の中隊行動表が送られていました。ガリ版刷りで隊員の様子も詳しくて驚きました。

          あの山容がそうかも知れないと、ダム湖にボートで乗り出し写真を撮りました。

                            左、妹(池田)、私、右、簔口先生

父森下明有が来ていた軍服です。左胸上部に小さな穴が見えます。昭和7年の軍隊日記です。1日も欠かさず記していました。

2022年2月18日金曜日

遺骨送還事業から不再戦碑建立へ   

 遺骨送還事業から不再戦碑建立へ

   協会14回大会特別決議

      道連・小樽支部の取組

        

      劉連仁さんの思い出(13)


         日中友好協会北海道連 会長 鴫谷 節夫


 日本中国友好協会は、九次にわたる中国人殉難者の遺骨送還運動が終結した1964年第14回大会で日中友好不再戦碑を建立しようという特別決議を行いました。

 前に書いたように札幌を訪れた李徳全女史一行は、到着したその日の午後、東本願寺で営まれた「中国人殉難慰霊祭」に出席しています。日本中国友好協会の特別決議「不再戦碑」建立はこの取組と一体をなすもので、以後の日中友好運動の根幹となる重要なものでした。

 日中友好協会北海道支部連合会も本部の特別決議を受けて、道内58事業場すべてに不再戦碑を建立するという方針を決め、その第一号として小樽支部が中心となって後志管内仁木町に建立する運動が始まりました。

 中国烈士園「日中友好不再戦碑建立の経過」というリーフ(日本中国友好協会北海道支部連合会・小樽支部)が残っていますので紹介します。



一、歴史的背景と殉難の経  過(省略)

二、不再戦碑建立までの調  査

 昭和三十八年五月の日本中国友好協会全国大会は、今まですすめて来た中国人俘虜殉難者の慰霊・遺骨送還事業を発展させ、日中友好不再戦友好碑の建立と全国的範囲での慰霊祭を行うことを決めました。協会は、日中友好運動は、かっての中国侵略の反省に立って、一日も早く国交回復を実現させ、日中両国人民永遠の友好を確立するという、素朴なそして厳粛な理念に立って運動をすすめてきた点から言って、それは当然なことであります。

 日本中国友好協会小樽支部(会長秋保充)は本部と道連から提供された一部資料を根拠に調査することを決定し、中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会の協力のもとに資料を集め、又戦後の国際裁判の記録などを参考に本格的な調査に入りました。

 昭和四十年三月中旬、小樽支部より派遣された田浦事務局長(現副理事長)は高橋宏忠氏(現仁木町議)の案内で仁木町役場を訪ね、担当の山口厚生係長(現教育長)に来訪の趣旨を説明したところ、山口氏が高木太市町長(故人)と打ち合わせた結果、こころよく関係資料を全部提出してくれることになりました。

これによって犠牲となった十二名の出身地・到着の年月日・死亡診断書等必要資料が全部そろったので、直ちに山口氏の案内で共同墓地に行き、幸いに火葬場の管理人伊藤孝丸さんの奥さん(先代管理人の娘さん)に会い、子供の頃父親からその箇所を知らされていたことから、一行は残雪のあるところを掘出して無縁仏を確認することができました。


                                    (つづく)           次回は企画と建立の経過

 中国と私    函館 丸尾 隆子(まるおりゅうこ )

  中国と私         函館 丸尾 隆子(まるおりゅうこ )


  私は晩年の母から、「満州に行きたい」と言われたことがありました。しかし高齢の両親を連れて中国に行く自信がなく、応えられなかったことがずっと心残りでした。

 私の両親は旧「満州」からの引揚者です。父は1917年生れ、母は1921年生れ。戦後、私は4人兄妹の末っ子として1955年に生れ、幼い頃から母の戦争の話を聞きながら育ちました。

 母は、18歳頃、姉夫婦を頼って「満州」に渡りました。「満鉄」に就職し電話交換手に。

 役所勤めの父と結婚、2人の子どもに恵まれました。その後父は現地召集されました。

 終戦、母は38度線を越えられず2歳の息子、0歳の娘と北朝鮮の収容所に入れられていました。飢えと寒さで子どもたちは次々と亡くなりました。父が母の収容所にたどり着いた時から逃避行がはじまり、京都舞鶴港に上陸しました。  

 2016年しんぶん赤旗に、「日中友好協会多摩支部・八王子支部 企画

 高句麗遺跡と大連・瀋陽・ハルピンをめぐる中国東北部・平和交流の旅」が載り、躊躇なく申込みました。

 旅行中、「満鉄」の大連の本社だった建物前で、両親の遺影を胸に写真を撮ることができ、長い間の宿題をやっと終えられたようで安堵しました。

 それ以降、同支部が企画の平和交流の旅に2019年まで連続4回参加しました。

 毎回、大学生との交流会も行われています。

 旅行先と大学は次の通りです。

 2016年 

ハルピン・瀋陽・撫順、集安、丹東、大連、旅順、遼寧大学

 2017年 

南京、蘇州、上海、南京林業大学

 2018年

西安、敦煌、陝西師範大学

 2019年 

昆明、元陽、サパ(ベトナム)、雲南大学

 遼寧大学の学生が私たちを「平和の使者」、南京林業大学の学生は「中国と日本の懸け橋になりたい」と発言したことが強く印象に残りました。

 旅行を機に私は、日中の平和と友好のために生きていきたいという思いに駆られています。

                           2020・2・1 春節を祝う会(八王子支部)
                                      雲南大学日本語学科の学生と交流

2021年12月14日火曜日

第10回中国百科検定

  第10回中国百科検定が11月27日、札幌会場はかでる2・7で行われました。今回の受験者は3人でした。

            札幌会場 かでる2・7の受験者


 日本政府が妨害した 遺骨送還運動

 日本政府が妨害した遺骨送還運動

     劉連仁さんの思い出(11)

    日中友好協会北海道連 会長 鴫谷 節夫

 

  中国人殉難者の遺骨発掘と祖国への送還運動は、慰霊実行委員会に結集した日本国民の反省と日中不再戦友好を願う全国的な活動でした。

 劉連仁さんは1958年4月10日、白山丸で帰国しました。この汽船は日本政府が日本人居留民の帰国を迎えに天津に派遣したもので、同時に中国人殉難者の遺骨148柱を送り届ける第8次送還船でもありました。

 日本政府は、極めて人道的なこの遺骨送還にも執拗な妨害を行いました。作家の松田解子さんは次のように証言しています。


 1953年には中国人殉難者慰霊実行委員会ができて、私もこれに参加しました。1953年7月に第1回遺骨送還船を出すことになり、私も婦人代表として参加することになったんです。吉田内閣は台湾の強い反対を理由にして、中国への遺骨船は出せないと頑固に拒んだんです。朝鮮戦争反対、ストックホルムアピールの原爆反対の署名運動などで闘っていた民主勢力の一致した力で実現させたんです。

 それでも政府は国民に知れないようにこっそり持って行ってくれと舞鶴港までは遺骨を荷物扱いにして、貨物列車のうしろに客車をつけて乗せようとしたため華僑が列車の前で座り込みをして抗議してあらためさせたんです。

 吉田内閣は私たちの国の代表で行くんではない、船員待遇なら行ってもいいというの。仕方なしに船員待遇で、黒潮丸で行ったんです。

 天津に着くと革命に成功して間もない活気に満ちた中国側の歓迎は大変なものでした。日本で親や息子、兄弟を殺された家族も来ていて号泣して遺骨を受け取られました。私たちは再び侵略戦争は起こしません、本当にもう殺しませんと、私たちを送り出してくれた日本人の誓いを伝えました、。(「日中友好運動の歩み」より)  

 北海道での中国人殉難者慰霊祭は、今年もこの68年前の誓いを守って取組んでいるのです。

     

          「日中友好運動のあゆみ」の表紙から


【戦後七六年を考える旅】を開催

  旅システム・日本中国友好協会共同企画

  【戦後七六年を考える旅】を開催

     北海道連・札幌支部事務局長 影浦 貞宏

  コロナ禍で開催が困難であった平和の旅ツアーが、11月20・21日、20人の参加でようやく開催されました。

 今回のツアーは「三船遭難事件」と「劉連仁さんの苦難に満ちた逃避行の地を訪ねる」というテーマでした。(以下、旅システムが用意した福士廣志氏の著書「留萌三船遭難~終戦秘話」を参考)。

 昭和二十年八月十四日にポツダム宣言を受諾し、翌十五日天皇陛下はポツダム宣言受入れを表明しました。

その一週間後に起きた悲劇です。

 襲撃事件はいずれも八月二十二日未明のことでした。【小笠原丸】

 四時二十分頃、増毛別海沖で魚雷攻撃を受け沈没。乗員乗客641人が死亡、61人が生存。

【第二号新興丸】

 四時五十五分頃、小平村鬼鹿沖で魚雷攻撃を受ける。この船は民間貨物船を徴用し、特設砲艦兼敷設艦であったため反撃。二番船倉に魚雷を受けるもかろうじて留萌港南岸壁に着岸。乗員・乗客約400人。死亡250人、行方不明150人。3,200人が生存。

【泰東丸】

 九時五〇分頃、同じく小平村鬼鹿沖で砲撃を受け沈没。乗員乗客六六七人が死亡。一一三人が生存。泰東丸にいたっては、抵抗の意思がないことを示すテーブルクロスを使った白旗を振っていたにもかかわらず、甲板上の引き揚げ者に大砲や機銃を発射したのです。

 降伏文書の調印は同年九月二日、ソ連はこの日を終戦と主張しています。

 ソ連は日ソ中立条約の有効期間中に宣戦して日本を攻撃したのであるから、ソ連との戦争に関しては一方的にソ連の側に責任があると思います。

 しかし、家永三郎氏は「戦争責任」という著書のなかで「日本の侵略の矛先が二〇世紀初頭以来ロシア=ソ連に繰り返し向けられていた。少なくとも日本人にソ連の対日開戦責任を論ずる道義的資格はない」と、書いています。

 私たちは、小笠原丸殉難碑をお参りし銘酒国「稀の酒蔵」を見学、そして食事は海鮮丼を堪能。次に留萌の樺太引揚三船殉難平和記念碑と第二号新興丸記念碑。鬼鹿の三船殉難慰霊の碑と資料館を巡り、ほろしん温泉ほたる館に向かいました。 翌日劉連仁さんが強制連行・強制労働を強いられた今は湖の底となった昭和炭鉱跡地や、連行されて来た時に乗せられたであろうドイツ製の貨車や鉄路、そして当別町の劉連仁生還記念碑などを見て回りました。 

            当別町の劉連仁生還記念碑を囲む参加者