2022年12月2日金曜日

統一協会の何が問題か 郷路征記弁護士著  緊急出版

 統一協会の何が問題か

          郷路征記弁護士著  緊急出版


  マインドコントロールとは何か?


 信者はなぜ家庭を崩壊させるような

    多額の献金をするのか?


 その伝道・教化手法の違法性は

    どこにあるのか?


 統一協会と対峙した35年

 見えてきた被害者救済の道筋と、

 被害防止の方向性①2022年8月23日に自由法曹団100周年記念北海道支部特別例会・共催青年法律家協会北海道支部で行われたオンラインで講演会の内容を再編。②世界10月号。等を収録したもの。


紀伊国屋書店札幌駅前店、新札幌店にあります。

 出版社「花伝社」にFAⅩで申し込むと送料無料、本に同封された振替用紙で貯金通帳送金は無料。               880円税込定価

    FAⅩ 03ー3239ー8272

    




 ひらぎし九条の会11月例会 講演会「今の中国はどんな国か」


  ひらぎし九条の会  11月例会

 講演会「今の中国はどんな国か」

   11月20日(日)豊平区民センターにおいて、ひらぎし九条の会の11月例会が開催され、西南学院大学名誉教授の村岡伸秋さんを講師に「今の中国はどんな国か」と題して講演が行われました。

 日中友好協会札幌支部に案内があり、小川勝美理事長が参加しました。

 村岡氏は、北大経済学部助手の後、中国政府奨学金留学生として中国南京大学に留学。その後九州の西南学院大学経済学部助教授、教授を務め、昨年3月定年退職、名誉教授になったと自己紹介。

 講演では、中国の基本データなどを紹介し、経済や外交などについて1時間にわたって詳しく紹介しました。

 特に、GDPで世界第2位だが、国民一人当たりだと62位。国内格差は、北京が1位で31位の甘粛省と4・55倍にもなる。国内格差はそれでも縮小してきている。改革開放直後の79年は上海と貴州省は12倍の格差だった。

 北京などの渤海湾地帯、上海などの長三角地帯、広東省などの華南地帯の三大経済圏と10省市が経済成長をけん引してきた。

 90年一人当たりGDPが185位が2019年62位まで高まっているが、上位1%の富裕層が国内資産の25%を保有している。

 中国はモノづくりを低く見る文化があり、「ないものはお金を出して買えばいい」という考えが主流だった。現在はAIを使って物を作っていくことに。15年には「中國製造2025」を発表。先端技術分野の開発は官主導、民間資本は、主に金融や流通に流れ製造業へは遅れている。総合製造業の代表である自動車産業は、外資との合弁。都市と農村問題では、農村はいまでも30%は読み書きができない。

 外交では、「一帯一路」構想の立ち上げ、2017年習近平は「大国外交」の言及。中国の伝統的な対外政策は「朝貢」と「柵封」体制、「国際社会」や「主権国家」の概念が希薄。などと紹介しました。

 男女平等の質問に答えて、農村はいまも封建的であり、都市部は女性が強く、食事などもつくらないで買い求めるのが普通などと紹介しました。

2022年11月1日火曜日

 しっかり取組んだ 中国人殉難者全道慰霊祭       

  しっかり取組んだ

 中国人殉難者全道慰霊祭 

     劉連仁さんの思い出(18)

   日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫


   「筋金入りの先輩たち」

 当時の日中友好協会小樽支部には筋金入りの先輩がたくさんいて、私の心配をよそに動じる気配がありませんでした。騒ぎ立てることなど全くありません。これは今でも不思議です。しかし心の中では皆一様に、この異常な文革が一日も早く終息することを願っていたのは間違いありません。

 田浦事務局長、本間喜代人理事長を中心に日中友好協会としてやるべきことをしっかりやるという態度で慰霊祭世話人代表の小樽商大学長の参列も絶えることはありませんでした。

 

 「中国側との関係断絶」

 しかし日中友好協会の本部では、一部の毛沢東派幹部が協会の財政から大金を持って脱走し、日中友好協会正統本部をつくり、策動を重ねていました。中国側はこの「正統本部」を日中友好協会と認め、私たちとの関係を断絶しました。

「あるSL労働者の旅路」

 田浦さんの後事務局長を勤めた武田篤朗さんは、1997年12月出版の自伝「あるSL労働者の旅路❘80年かけあるき」の「あとがき」につぎのように書いています。


  私の人生に決定的な影響をもたらした「新中国」は「文化大革命」や「天安門事件」にみられるように大きく変貌し、人々を感動させた当時の「良さ」は昔語りとなった。

 幾千万の人民の血をもって購われた「新中国」の歴史を思う時、あまりにも大きな人民の犠牲に痛恨の念を禁じえない。私は、中国人民との友好を願いつつも政権に対する信頼は、事実と道理にてらして、強い不信感に変わった。

 しかし、四千年の歴史に培われた中国人民の知恵と潜在力は、何時の日か民主的政権を我がものとし、曾ては国際的評価を得た「平和五原則(領土・主権の尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和共存)」に光を当てるであろうと期待される。


 日中国交正常化50周年  記念シンポジウムに参加して                 釧路支部 原 聰

  日中国交正常化50周年

 記念シンポジウムに参加して

     釧路支部 原 聰


   日中国交回復は戦後の国民の願いであり、日中友好協会の創立以来の課題でもありました。

 中国への侵略戦争に始まったアジア太平洋戦争と敗戦の痛切な体験と反省にねざした要求であり、課題でした。当時国民の中に日中国交回復を実現して平和な友好関係を実現することこそ、戦後日本の取るべき道だとの世論があり、国交回復運動を支え、日中国交回復が実現しました。

 釧路支部も労働組合、民主団体、女性団体と共に全国三千万署名に取り組みました。

 国交回復後日中両国民の往来、文化・経済交流などが可能となり活発になりました。

 日本に好感を持つ中国人が多いのに反し、中国に好感を持つ日本人は20%程とのこと。

 今回のシンポジウムは、日本人の嫌中感が広がるなか、日中友好と平和を願って活動する若い世代の思いを聞けたことが成果でした。

日中国交回復50周年によせて     

 日中国交回復50周年によせて

                   岡崎 邦宏


 私が日中友好協会にかかわるようになったきっかけは、井上司先生との出会いがあったからでした。

 当時先生は札幌東高校に在職中で、私も当時白石区内の公立小学校に勤務しておりました関係で、先生に勧められて『日中友好新聞』の購読を始めました。

 その当時は中国の文化大革命やその余波の中で、日本と中国の関係は余りよくありませんでした。私自身も中国の革命文学を読みあさっていた学生時代と比べても、中国とは余り友好的な感情を持てない状態でした。それでも、尊敬する井上先生から勧められたので、『日中友好新聞』の購読を了承して、以来現在に至っております。

 実は、日中友好協会札幌支部理事長の小川勝美氏とは、江別高校の同級生でありました。還暦を過ぎた辺りから、彼も含めて何人かの同級生と年何回か酒を飲んだりミニ旅行をしたりする様になりました。(現在はコロナの関係で中断しています)そんな関係が、私にとっての日中友好協会との第2の接点でした。

 現在の日中関係は香港問題や台湾問題を見ても、自分自身が友好的な心情を醸し出せない状態にいることも事実です。しかしながら、日本と中国は長い歴史の歩みの中で、何を基調にしていくかを考えた時に、『対決・軍備増強』では、課題の解決にはつながらない。『日中友好』でしか有り得ない。今いろいろ苦労の多い時期でも在るが、地道に努力していくことが大切であろう。

「プロレタリア文化大革命の 本質は何か」   

 「プロレタリア文化大革命の 本質は何か」

         劉連仁さんの思い出(17)

 日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫



  「まさか、あの偉大な      毛首席が」

 吹き荒れる「文革」の中、歯を食いしばるような思いの中、中国人慰霊祭に取り組む私たちの最初の課題はこの「文革」の本質を突き止めることでした。日本のマスコミは「文化」というなまえに惑わされて、何か崇高な革命のように讃える論調が圧倒的でした。

 私は紅衛兵の追求とリンチによって自殺した老舎のことを聞いた時、これは間違った運動だと感じたがまだすっきりしません。

 「10・10論文」を

  繰り返し読んで

 歳が明け1967年10月10日、「赤旗」6ページにわたる論文「今日の毛沢東路線と国際共産主義運動」が載りました。私たちは10・10論文と言って夢中になって読み進めました。『二、(2)「文化大革命」の主要な内容は、毛沢東一派の専制支配の確立にある』という部分を繰り返し読んですっきりしました。そして私の中に強固に張り付いていた「毛沢東崇拝」は音を発てて剥がれ落ちました。

 「資料室から、

  コピーを取り寄せる」

 念のためもう一度見ておきたいと思って、中央委員会の資料室にコピーを頼みました。資料室に次のような礼状を出しました。


 うろ覚えだった「10・10論文」に会えて私の記憶が確かだったと嬉しく思っています。

 一九六七年十月といえば「不再戦友好碑」を建立し除幕慰霊祭を行ったのが1966年10月29日のことですから第二回慰霊祭を終えたばかり、大混乱に陥っていた頃です。私は31歳、この論文を夢中になって読みとおした記憶があります。

 「文化大革命の主要な内容は毛沢東一派の専制支配の確立にある」という章を繰り返し読み返す中で、この先も日本共産党とともにこの中国人慰霊祭に取り組んでいく決意が出てきたように思います。

 ありがとうございました。



日中友好協会62年の回想    

 日中友好協会62年の回想

 道連顧問・美唄支部事務局長 供野 周夫


 私が日中友好協会の一員となったのは昭和27年の事で知人のすすめで「三笠でも日中友好協会を組織してほしい」という話であった。日中不再戦を意識している何人かで支部(準備会)を組織した。少ない人数で中国物産展を開催した。一番売れたのは絹張で中国の山水画が描かれていて、飛ぶように売れた。

 昭和30年頃だったと思うけど、北炭新幌内の労組委員長が中国の炭鉱協会の招待で中国に行った。その事を聞いて地区労・社会党の中では「自分も日中に入会していたら中国に行けるかも知れない、という淡い思惑があり、日中友好協会に15人程度入会するので地区労・社会党に副支部長と会計のポストをほしい、というものであった。翌日の総会でもポストの要求で混乱し、道連の猪股事務局長の説得にも聞く耳をもたず、横暴が通らないとみると退散した。結局従来の役員を確認して散会した。

 地区労・社会党の妨害は昭和41年の年にも起きた。AA連帯委員会の一行十数名の中国代表団が三笠に来ることになり、昼食会を、三笠の労働会館の食堂で開くことをを決めていたらしい。2日前になって、昼食会の会場を断って来た。道連からの知らせで、年休を使い会場探しに奔走した。三笠で一番豪華なホテルは快よく応じてくれて一行は喜んで次のスケジュールで会場を去った。昭和42年に美唄に転勤するまでの15~6年は波乱万丈の時代であった。

 美唄に正統本部という分裂組織があったようだが、そのうちに消えて、今、日中友好を口にするのは私たちだけである。

     (とものかねお88歳)