2021年12月14日火曜日

第10回中国百科検定

  第10回中国百科検定が11月27日、札幌会場はかでる2・7で行われました。今回の受験者は3人でした。

            札幌会場 かでる2・7の受験者


 日本政府が妨害した 遺骨送還運動

 日本政府が妨害した遺骨送還運動

     劉連仁さんの思い出(11)

    日中友好協会北海道連 会長 鴫谷 節夫

 

  中国人殉難者の遺骨発掘と祖国への送還運動は、慰霊実行委員会に結集した日本国民の反省と日中不再戦友好を願う全国的な活動でした。

 劉連仁さんは1958年4月10日、白山丸で帰国しました。この汽船は日本政府が日本人居留民の帰国を迎えに天津に派遣したもので、同時に中国人殉難者の遺骨148柱を送り届ける第8次送還船でもありました。

 日本政府は、極めて人道的なこの遺骨送還にも執拗な妨害を行いました。作家の松田解子さんは次のように証言しています。


 1953年には中国人殉難者慰霊実行委員会ができて、私もこれに参加しました。1953年7月に第1回遺骨送還船を出すことになり、私も婦人代表として参加することになったんです。吉田内閣は台湾の強い反対を理由にして、中国への遺骨船は出せないと頑固に拒んだんです。朝鮮戦争反対、ストックホルムアピールの原爆反対の署名運動などで闘っていた民主勢力の一致した力で実現させたんです。

 それでも政府は国民に知れないようにこっそり持って行ってくれと舞鶴港までは遺骨を荷物扱いにして、貨物列車のうしろに客車をつけて乗せようとしたため華僑が列車の前で座り込みをして抗議してあらためさせたんです。

 吉田内閣は私たちの国の代表で行くんではない、船員待遇なら行ってもいいというの。仕方なしに船員待遇で、黒潮丸で行ったんです。

 天津に着くと革命に成功して間もない活気に満ちた中国側の歓迎は大変なものでした。日本で親や息子、兄弟を殺された家族も来ていて号泣して遺骨を受け取られました。私たちは再び侵略戦争は起こしません、本当にもう殺しませんと、私たちを送り出してくれた日本人の誓いを伝えました、。(「日中友好運動の歩み」より)  

 北海道での中国人殉難者慰霊祭は、今年もこの68年前の誓いを守って取組んでいるのです。

     

          「日中友好運動のあゆみ」の表紙から


【戦後七六年を考える旅】を開催

  旅システム・日本中国友好協会共同企画

  【戦後七六年を考える旅】を開催

     北海道連・札幌支部事務局長 影浦 貞宏

  コロナ禍で開催が困難であった平和の旅ツアーが、11月20・21日、20人の参加でようやく開催されました。

 今回のツアーは「三船遭難事件」と「劉連仁さんの苦難に満ちた逃避行の地を訪ねる」というテーマでした。(以下、旅システムが用意した福士廣志氏の著書「留萌三船遭難~終戦秘話」を参考)。

 昭和二十年八月十四日にポツダム宣言を受諾し、翌十五日天皇陛下はポツダム宣言受入れを表明しました。

その一週間後に起きた悲劇です。

 襲撃事件はいずれも八月二十二日未明のことでした。【小笠原丸】

 四時二十分頃、増毛別海沖で魚雷攻撃を受け沈没。乗員乗客641人が死亡、61人が生存。

【第二号新興丸】

 四時五十五分頃、小平村鬼鹿沖で魚雷攻撃を受ける。この船は民間貨物船を徴用し、特設砲艦兼敷設艦であったため反撃。二番船倉に魚雷を受けるもかろうじて留萌港南岸壁に着岸。乗員・乗客約400人。死亡250人、行方不明150人。3,200人が生存。

【泰東丸】

 九時五〇分頃、同じく小平村鬼鹿沖で砲撃を受け沈没。乗員乗客六六七人が死亡。一一三人が生存。泰東丸にいたっては、抵抗の意思がないことを示すテーブルクロスを使った白旗を振っていたにもかかわらず、甲板上の引き揚げ者に大砲や機銃を発射したのです。

 降伏文書の調印は同年九月二日、ソ連はこの日を終戦と主張しています。

 ソ連は日ソ中立条約の有効期間中に宣戦して日本を攻撃したのであるから、ソ連との戦争に関しては一方的にソ連の側に責任があると思います。

 しかし、家永三郎氏は「戦争責任」という著書のなかで「日本の侵略の矛先が二〇世紀初頭以来ロシア=ソ連に繰り返し向けられていた。少なくとも日本人にソ連の対日開戦責任を論ずる道義的資格はない」と、書いています。

 私たちは、小笠原丸殉難碑をお参りし銘酒国「稀の酒蔵」を見学、そして食事は海鮮丼を堪能。次に留萌の樺太引揚三船殉難平和記念碑と第二号新興丸記念碑。鬼鹿の三船殉難慰霊の碑と資料館を巡り、ほろしん温泉ほたる館に向かいました。 翌日劉連仁さんが強制連行・強制労働を強いられた今は湖の底となった昭和炭鉱跡地や、連行されて来た時に乗せられたであろうドイツ製の貨車や鉄路、そして当別町の劉連仁生還記念碑などを見て回りました。 

            当別町の劉連仁生還記念碑を囲む参加者


2021年11月2日火曜日

札幌でも大歓迎  来日した中国赤十字代表団 劉連仁さんの思い出(10)

  札幌でも大歓迎
 来日した中国赤十字代表団
      劉連仁さんの思い出(10)
           日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫
 

 

日本共産党中央機関紙「アカハタ」1957年12月3日号1面には、「日本軍国主義への告発 中国人殉難の概要 慰霊実行委員会発表」という記事が踊っています。
 これは劉連仁さんが発見される2か月あまり前で、私は卒論に悩んでいた時期であり当時から「アカハタ」は熱心に読んでいたのですがまったく記憶にないのが残念です。記事のはじまりは次のとおりです。

 李徳全女史ら中国赤十字代表団は来る五日来日するが、これに先立ち中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会(会長・大谷瑩潤氏)では、これまでの中国人遺骨送還事業の経過をまとめた報告書をつくった。同報告書はその中で「戦時中、日本の労働力不足を補うため、中国人を日本国内に連行し、強制労働をさせたが、そのうち六千人以上が殺された」事実をあげ、十数名の証言とともにのせ、ヒトラーのナチスと肩を並べた日本軍国主義の残虐行為を激しく非難している。・・・・・」

 李徳全女史一行は東京の諸行事をおえたあと、八日北海道を訪問しています。
 「アカハタ」は十二月九日の記事では、「沿道を舞う紙吹雪 札幌歓迎大会に一万数千人」と見出しを付け次のとおり紹介しています。

 李徳全会長をはじめとする訪日中国赤十字社代表団は八日朝十時高岡北海道知事代理、荒北海道議会議長ら三百名の出むかえる千歳空港におりたち、ただちに千歳町民歓迎大会にのぞんだあと五星紅旗、日の丸、赤十字社旗の歓迎の波の中を札幌市内テレビ塔下でひらかれた札幌市民歓迎大会にのぞみ午後は同市東本願寺で営まれた中国人殉難慰霊祭に出席した。
この日雪もようの札幌市では一万数千の札幌市民が一行を出むかえて歓迎大会に参加、空につぎつぎと花火がうちあげられ、千歳町から市の入口豊平橋にさしかかるころの李徳全さんの自動車は沿道をうずめつくした市民から投げられる紙吹雪と五色のテープでうずまった。李徳全さんは全市あげての歓迎にたいし「アリガト」「アリガト」をくりかえし「中国の日本人民との友好の方針は今後永久に変わらないでしょう。平和共存と友好親善のため皆さんと一しょにすすみましょう」とあいさつした。

 当時のこのような大歓迎は何に起因するのでしょうか。知らぬこととは言いながらつい十年あまり前、自分が生活するこの北海道という身近な場所で、三千名を越える中国人が強制労働により虐殺された事実に深刻な衝撃を受けた道民感情の裏返しではないのか、私にはそう思えるのですが。
                                  (つづく)

第56回 中国人殉難者全道慰霊祭を 厳粛に開催

 第56回

 中国人殉難者全道慰霊祭を

         厳粛に開催

 10月24日(日)後志管内仁木町町民センターにおいて第56回中国人殉難者全道慰霊祭を63人が参列し厳粛に執り行いました。

 浄土真宗大谷派北海道教区北第3組の、教照寺、正念寺、浄秀寺、正覚寺、即信寺の五ヶ寺の住職が読経。読経の中参列者が順次焼香を行いました。

 焼香の後、仁木町の佐藤聖一郎町長が慰霊のことばを奉げ、中華人民共和国駐札幌総領事館劉亜明総領事の追悼のことばを事務局の鴫谷節夫道連会長が代読しました。

 北海道の鈴木知事と北海道議会の村田議長の弔文が報告されました。

 世話人代表の小樽商科大学穴沢眞学長が、参列者の皆様に御礼のご挨拶をされました。

 北海道在日中国科学技術者連盟の呉敦顧問が、日本軍国主義によって、中国人の強制連行が行われ、多くの犠牲者を生み出した。二度と繰り返さないために中日友好と平和が大切であると述べました。

 東京から仁木の会場に駆け付けた、北海道大学大学院法学研究科の吉田邦彦教授は、前日東京で行われた、731部隊の細菌による人体実験などの研究会の模様を特別報告しました。

 北海道大学中国人留学人員友好聯誼会の張立夫(医学部博士1年)さんと耿曟 涵(農学部4年)さんが 自己紹介を兼ねて挨拶し、室蘭工業大学の中国人留学生学友会の3人も挨拶、1人は強制連行について述べ、2人は英語で話しました。

 昨年は実施できなかった慰霊太極拳を今年は実施。

 鴫谷節夫会長が「剣」を表演しました。

 参加した中国人留学生の皆さんと会場で記念撮影を次々と行いました。

左から、吉田先生、張さん、耿さん、室工大の3人
 
            慰霊太極拳の鴫谷節夫会長
       世話人代表のあいさつをする小樽商科大学の穴沢眞学長
           浄土真宗大谷派の5か寺の住職様の読経

    慰霊祭終了後、

  中国烈士園の「日中不再戦友好碑」を

     留学生、北大2人、室工大3人が訪問

 慰霊祭に参加した中国人留学生、北大2人、室工大3人が、仁木町墓苑の中国烈士園「日中不再戦友好碑」を訪問。

 郭沫若氏の文字などが刻まれた碑を見て回りました。

 室工大と北大がそれぞれ記念写真を撮りました。

                張さんと耿さん



  

2021年10月18日月曜日

遺骨の発掘送還運動と中国人殉難者名簿

 遺骨の発掘送還運動と中国人殉難者名簿

        劉連仁さんの思い出(9)

         日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫

   コロナによる緊急事態宣言で会場使用に制限がかかり、昨年今年と中国人殉難者全道慰霊の行事に困難が生れています。例年参加している人も、今年は無理でしょうと言います。私自身もどうしようかと悩みます。

 ふと、劉さんに聞いてみたいと思います。何と言うだろうと想像してみますが、劉さんはニコニコ笑っているだけです。

 やっと解除になったので全道慰霊祭は、10月24日に開催します。先立って室蘭の慰霊の集いが10月3日開催されました。屋内の懇談会は無し、雨天の場合は中止する、強い決意に天も味方、穏やかな好天の中、イタンキ浜の眺めも美しい会場となりました。

 全道慰霊祭事務局からの挨拶をしながら参列者を見渡すと、コロナの為椅子を少なくしてあるので後ろ側にずらりと並ぶ室工大の中国人留学生の姿がありました。この室蘭の慰霊の集いがしっかりと根を張っているのを実感しました。

 1953年2月に「中国人殉難者慰霊実行委員会」が発足し、7月に遺骨送還船が出航しました。以後1964年まで9回に渡って2810柱15箱の遺骨を送還しました。

 さらに1960年2月には、中国人殉難者名簿共同作成実行委員会によって死亡人員6732名の「中国人殉難者名簿」が作成されています。日中道連で刊行した「知っていますか❘北海道での中国人強制連行❘全道58事業場殉難記録」にこの名簿の北海道分を収録しています。

 先人たちの残した「燦然と輝く偉大な業績」を思うとき、コロナの中でも絶える事無く慰霊祭に取り組む勇気が湧いてきます。                                          (つづく)


中華人民共和国成立72周年祝賀レセプション

 中華人民共和国成立72周年祝賀レセプション

 ZOOMにてオンライン形式で開催

        協会北海道連から小川勝美理事長が参加

 9月30日午後3時から中華人民共和国成立72周年祝賀レセプションがコロナ感染症対策を考慮しZOOMによるオンライン形式で開催されました。

 参加者は道内各地や東北地域などから、229人が参加し、1台のパソコンの前に5人や6人のところもあり、300人を超えていたかもしれません。 日中友好協会北海道連からは小川勝美理事長が自宅のパソコンで参加しました。

 中国総領事館を代表して劉亜明総領事が主催者挨拶をされる予定でしたが、急用のため中国に戻られ、夏少傑副総領事が挨拶文を代読しました。  
 北海道の浦本副知事や札幌市の町田副市長などの来賓祝辞が行われ、「美麗中国」のビデオを観賞して1時間弱で終了しました。
 開会前もビデオが放映され、中国各地で活躍する人々を紹介。紹介者の党歴が32年とか、5年などと中国共産党100周年に合わせたビデオでした。

第29回10・9中国人殉難烈士 慰霊の集いを開催

  秋晴れのもと 室蘭で

      第29回10・9中国人殉難烈士慰霊の集いを開催

  10月3日、秋晴れの下、中国人殉難烈士慰霊碑前で、第29回10・9中国人殉難烈士慰霊の集いが54人の参加で開催されました。内、中国人留学生11人が参列しました。

 集いの司会を松本徹さんが務め、参列者全員が起立し、殉難烈士に黙祷を捧げ、実行委員会を代表して、松原剛代表が、慰霊の集い開催の経緯などを話し、政府などの歴史修正主義的傾向を厳しく批判しながら、「あらためて殉難烈士の皆様のご冥福をお祈りし、参列者のご協力をお願いし挨拶といたします」と述べました。

 参列者が順次慰霊碑前に設置された祭壇に献花をしました。

 3人が慰霊・追悼のことばを述べました。

 室蘭工業大学中国人留学生学友会を代表して楊路一さんが挨拶しました。

 つづいて、、中国人殉難者全道慰霊祭事務局長の鴫谷節夫道連会長が挨拶しました。次に、撫順の奇蹟を受け継ぐ会の道支部長が挨拶。

  協会本部の井上久士会長のメッセージは栞印刷されて紹介されました。

 室蘭合唱団「あすなろ」の皆さんによる中国人烈士を悼む「砂に消えた人々」の合唱で集いは終了しました。

2021年9月7日火曜日

劉連仁生還記念碑  当別ツアーの動画を公開 旅システム

    日中友好協会北海道連も制作に協力した旅システムの新しい動画(8月31日公開「当別平和ツアー」が、完成し公開されました。

 会員・準会員の皆様も、ぜひ御覧になってみてください。

 YuuTyubuからと旅システムのホームズからアクセスできます。                                        旅システムを検索してでホームページを開き、下の方にスクロールしますと赤いYuuTyubuのバナーが出てきます。そこをクリックして、当別平和ツアーを選んでクリックしてください。  

「エッ、こんなに大きく!」     劉連仁さんの思い出(8)

 「エッ、こんなに大きく!」

           劉連仁さんの思い出(8)

                             (番外編)

                  日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫

  道新記者Aさんから掲載の予告を聞いていたが、まさかこんな大きな記事になるとは、全くの想定外だった。しかも第一社会面。

 「加害の歴史 直視して」「強制連行の故劉連仁さん 潜伏生活13年」「交流の歴史を回顧録に」と3つ見出しがあった。  

 8月2日早朝6時すぎ、「こんな大きな記事になるとは あなたのおかげ 慰霊祭を支えている仲間が喜びます感謝 お元気で!鴫谷」メールを送った。最後の一言は、Aさんが7月の末に札幌に転勤になったからだ。


 道新小樽支社のA記者は4年前に新卒で小樽にやってきた。夏の「おたる平和展」の取材で知合って、私に話を聞きたいと我が家に来ていろいろ話した。

 ちょうどその年のおたる平和展では、小樽市内の山田さんという方が「物置で戦時中の旧日本軍が発行した冊子を見つけた」と事務局に届けてくださった。

 これがまた大変な代物で陸軍が発行した少年兵募集のパンフレットだった。

表紙は「わが陸軍の少年兵」とあり、「陸軍少年飛行兵学校」などさまざまな兵種の募集内容や給料まで記載されている。発行年月日はなく、発行元もない。

 私はその冊子をA記者に渡して、提供者の山田さんに会って話を聞いたらいいよ勧めた。私が意図したものと違ったが、彼女は見事な記事をまとめ、8月15日の「地域の話題」面を大きく飾ったのである。


 A記者に「回顧録」と命名された「劉連仁さんの思い出」は当初の予定を遥かに越え、何時完結するか見通せない。書き始めて構想(大袈裟だが)が変わったのだ。まだ仲間にも話していないし、了解も取り付けていないが「中国人殉難者全道慰霊祭のあゆみ」のその一部として書いておきたいと切に思うのである。

「日中友好協会」と私 菊地 三郎

 「日中友好協会」と私

                    菊地 三郎


  初めまして、新入会員の菊地です。


 1979年に当時の事務局長猪股さんに勧められてからの読者で、この5月には、小川勝美さんの熱心な説得にあってとうとう会員になってしまいました。


 日中友好は私の人生にとって、ずっと大切なものでした。

 両親と二人の兄は、1945年8月まで満州で生活していました。

 父は「農林省」に勤めていました。かなり高額な給料(内地の数倍)だったと聞きます。比布に住む親に多額の仕送りをしていたことも聞きました。


 1945年初夏、父は31歳で徴兵、満州で初年兵訓練に入ります。

 訓練中の1945年8月15日(終戦)直後「除隊命令」を受けて、10日もたたないうちに比布に戻ります。


 終戦と同時に、27歳の母は二人の子(1歳と3歳)とともに、満州で作った財産を総て捨て日本を目指す1年2か月<帰郷は46年10月>の「逃避行」に入ります。ソ連兵の悪行を恐れつつの逃避行だったこと、中国人(蒋介石)に助けられたことを母は死ぬ(2015年97歳没)まで語っていました。<事実誤認含めて>。(父は1964年50歳で他界します<私は16歳>が、満州時代の詳細を語ることはありませんでした。)


 この様な家庭に育った私が、日中友好に関わるのは普通かなと思います。


 先の戦争に反省しない政府(歴史を修正して植民地支配も侵略もなかったことにしようとする)の下で生きている私たちは、再び政府の行為によって戦争の惨禍のない日本にしなければと強く思います。


 私が、42年前に読者になったこと、今年度会員になったことは、間違っていない人生を歩んでいると勝手に思っています。不勉強の私、人格の陶冶にやや欠ける私ですが、諦めずにお付き合いをよろしくお願いします。

     菊地三郎さんには、新年度から札幌支部の会計監査を務めていただいています。

2021年8月10日火曜日

「草の墓標」ついに出た! (新日本出版社 刊) 劉連仁さんの思い出(7)

 「草の墓標」ついに出た!(新日本出版社 刊)

    劉連仁さんの思い出(7)

                    日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫

 六十年安保の山場で「世界」に発表された中国人強制連行事件は、B6判320ページの単行本「草の墓標❘中国人強制連行事件の記録❘」として新日本出版社から刊行されました。

 一九六四年三月初版(定価三八〇円)で何判重ねたか不明ですが、相当数普及されたと思われます。

 出版の事情は「本書は中国人強制連行事件の記録である」から始まる「まえがき」の部分に次のように明記されています。


 本書の内容はその基礎となった「資料」の1%にもならない。その膨大な「資料」は何千何万という日本人民によって集められたものである。従って本書の本当の著者は何千何万という日本人民である。

 しかし本書の内容は、中国人強制連行事件の事実のわずかな一部分を現しているにすぎない。一層多くの「資料」と「証言」によって補われることを希望します。

 一九六三年十一月

 中国人俘虜殉難者慰霊事 業十周年記念全国的慰霊 祭のなかで

   中国人強制連行事件資料 編纂委員会


 全体は二十六章から成り、劉連仁事件も一章割当てられています。目次は各章の内容が判る見出し・小見出しがあり、興味を持った所から読み始めるよう工夫されています。例示すると、



 二二 美唄、夕張地区にお     ける闘争

 その一 美唄、夕張にお     ける中国人連行

  その二 中国人の闘争

  その三 日本人労働者との     友好


 また、基礎的資料はもちろんですが、証言を多く採用し、読みやすくリアルな内容です。

 中国人殉難者全道慰霊祭は、今秋第五六回を迎えますが、なぜ私たちが慰霊祭に取り組むのか、この「草の墓標」を再刊普及して、北海道の人々に知って貰いたいと切望します。

       (つづく)


「日中友好協会」と私   札幌支部 旗手 繁雄

 「日中友好協会」と私           札幌支部   旗手 繁雄

   1965年3月、20代の私は、ひどく緊張して北京の人民大会堂にいました。

 当時アメリカのベトナム侵略は、泥沼化し核兵器の使用も考えられていました。 中国平和委員会会長・郭沫若さんの招待で日本原水協代表団(12名)の一員として参加し、最初の会談が人民大会堂でした。

 テーマは「アメリカがベトナムで核兵器を使わせないために、日・中両国人民は何をすべきか」でした。

 中国9都市の平和・婦人団体や職場で交流し貴重な1ヶ月でした。中国の歴史や文化に触れたこと、何よりも誠実で真剣な多くの人々と話し合いができたことです。

 帰国してすぐ「日中道連」を訪ね入会し、56年になります。


 訪中の翌年から毛沢東派の「文化大革命」が始まり、日本の民主運動、特に、日中友好協会への攻撃が暴力を伴って行われました。

 毛沢東派が作った「日中友好協会(正統派)」へ走った身近な人もいました。それから30年以上「中国から相手にされない日中友好協会」と誹謗される中「日中不再戦」を掲げ、平和を求める中国国民との「真の友好」のために、中国共産党や政府の指導者がどうであれ、地道に運動をすすめてきた日中友好協会の一員であることを誇りに思っています。

 いま、南シナ海などにみられる膨張主義的行動にたいし、日本の菅首相は日米共同声明で、自衛隊の強化と共に、台湾海峡で事がおこればアメリカと一緒に自衛隊も出動すると言い、きわめて危険な状況になっています。

 いまこそ、日中両国民は力を合わせ「日中不再戦」の声を広げ、アジアの平和を守らなければなりません。

 「日中友好協会」の一員として頑張りたいと思っています。

旗手繁雄さんには、新年度から札幌支部の理事を務めていただいております。

2021年7月19日月曜日

なぜ雑誌『世界』は  「中国人強制連行の記録 」を掲載したか  劉連仁さんの思い出(6)     日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫

 なぜ雑誌『世界』は「中国人強制連行の記録」を掲載したか

   劉連仁さんの思い出(6)

                  日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫 

 前回、雑誌「世界」の特集について書く中で奇妙なことに気付きました。執筆者の名前がないのです。個人名も団体名もありませんが、実は本文に入る前に5ページ半に及ぶ、★読者へ❘極東の新しい緊張とわが国の未済の戦争責任について❘というメッセージがあります。(以下2ヶ所引用) 



 読者もご承知のとおり、日米安保条約改訂の交渉がまだ途中のころから、ソ連と中国とは・・はっきりと危惧を表明していたがついに調印と決定するに及んで、・・中ソ両国を仮想敵国とする軍事同盟にほかならぬとし、強硬な反対を表明すると共に・・・・中国における反応がいかに強烈であるかは、先月号に掲載した西園寺公一氏の北京からの報告で明らかである。・・ここに、戦争中わが国が中国の人民に加えた暴虐の一部をあえて発表して読者の注意を乞うのも、極東に発生しつつある緊張について憂慮に堪えないからである・・・ 


 本誌は、新安保条約との関連において私たち日本人が改めて中国との関係を正確に理解し、かりそめにも誤解を生み出さないことを希望して、ここに、戦時中に四万に近い中国の良民が強制的にわが国に連行されて、不足した労働力の補充にあてられ、非人間的な虐待によって六千八百余名の死亡者、八十余名の行方不明者を出した事件についての報告を、読者に紹介することにした。それは、日本人が中国の民衆に加えた暴虐の歴史の一部であり、われわれにとっては今なお苦痛を伴わずには思い出せない事柄である。



 冒頭と4ページの下段から引用したが、これで見ると執筆者は「世界」自身❘編集者で読者に呼び掛けた形になっています。しかし、文中には「私たち」が多用されていて、それが執筆者の場合と日本国民を指す場合があります。

 「世界」の訴えは、「新安保条約批准国会」における国民的高揚の中で、岸政府が中国に対する戦争責任も果たさず、贖罪も済んでいないのに今また、中国を仮想敵国とする軍事同盟に進むなど許されないし、日本国民もまたその道義的責任を果たさなければならないと呼び掛けるものでした。

 (私が持っている「世界」は小樽桜陽高校での同僚・土田耕一先生から頂いたものです。その時紙切れもくださったのですが、それは在学証明書で、右ノ者東京陸軍少年飛行兵学校生徒トシテ在学中軍ノ復員ニ伴ヒ帰郷セシメタル者ナルコトヲ證明ス 昭和二十年八月二十七日 東京陸軍少年飛行兵学校長 戸田 剛 とありました)

日本中国友好協会  札幌札幌支部 新年度の体制

 札幌支部も、コロナ禍のため、昨年に引き続き総会を中止し、拡大理事会による文書理事会としました。

 昨年度の活動のまとめと新年度の活動方針、昨年度の決算と新年度の予算を承認し、新年度の役員の選出を行いました。

 新理事を補充し、会計監査の一人が交代しました。

 退任したのは宍戸健さん。

  新しい役員は、理事に旗手繁雄さん、会計監査に菊地三郎さんが選出されました。

    新年度の役員

  理事長  小川勝美 

 副理事長 三木 ふみよ

 事務局長 影浦 貞宏

 理事   稲津 拓郎

  々    重本 雅江

  々    旗手 繫雄

 会計監査  菅原 健太

  々          菊地 三郎 

日本中国友好協会 北海道支部連合会 新年度の体制

  北海道連は、コロナ禍のため、昨年に引き続いて総会を中止し、5月19日の理事会を開催して対応する予定でしたが緊急事態宣言が発しられため、理事会も中止し、三役だけが集まり、文書議案を検討、各理事に発送して.文書理事会としました。

 昨年度の活動のまとめと決算、新年度の活動方針と予算を承認し、新年度の役員を全員再任しました。

 再任された役員

 会長   鴫谷 節夫

 副会長  供野 周夫

 副会長  伊藤 貞市

 理事長   小川 勝美

 事務局長 影浦 貞宏

 理事   三木ふみよ

 々    水間 淳一

 々    藤島 寛

 々            松原 剛

 々    原  聰

 会計監査 重本 雅江

 々    秋山 恵 

日本中国友好協会全国大会 オンラインで開催 北海道から6人参加

 日本中国友好協会全国大会  オンラインで開催   北海道から6人参加

6月12日、昨年に続き、全国大会はオンラインで開催されました。

 北海道からは、鴫谷節夫道連会長と苫小牧支部の蔦保収事務局長の2人が代議員として、道連の影浦貞宏事務局長、苫小牧支部の伊藤貞市支部長、釧路支部の原聰支部長の3人は評議員として、小川勝美理事長は本部役員として、北海道から6人が参加しました。

 小川理事長は今年も資格審査委員長を務めました。

 苫小牧支部の伊藤支部長が、会員拡大など仲間づくりについてと帰国者二世の請願書名の取り組みついて発言しました。

 苫小牧支部ニュースが機関紙コンクール特別賞を受賞し、昨年10月にご逝去された帯広支部の坂本武三事務局長が物故者顕彰を受けられました。

 役員選出で、小川勝美理事長は、本部常任理事に、伊東貞市支部長と原聰支部長は理事にそれぞれ再任されました。 

2021年6月8日火曜日

・中国を知るために・「中国を知るための日本語総合月刊誌」【人民中国】を読みましょう

 ・・中国を知るために・・

「中国を知るための日本語総合月刊誌」

【人民中国】を読みましょう

   月が変わる度に札幌市の豊平にある「北海道中華書店」から定価400円の雑誌が郵送されて来る。1956年12月第3種郵便物認可の「人民中国」だ。 

 発行者は「人民中国雑誌社(北京市)」。発売元は中国国際図書貿易集団有限公司(北京市)。発行所は東方書店(東京都千代田区神保町)。前記の「北海道中華書店」が北海道での取扱書店で、札幌華僑総会の席占明さんが経営者であった。亡き後は夫人の周玉蘭さんが引き継いでいる。

 昨年の6月号にはスペシャルリポート「武漢で闘った3人の物語」が載った。パート2「家族を説得し増援に駆け付け」は、武漢に全国各地から派遣された340以上の医療チームに所属する4万2600人余りの医療従事者たちの「秩序立った50日間の死闘」の記録だ。

 武漢を閉鎖し全国から医療チームを結集して感染を抑え込んだ中国の底力を知って、中国革命の伝統が生きていると感動した。

 年間購読料4800円は嘘みたいに安い。

             申し込みはFAⅩでお願いします。

                011(823)6380

                        北海道中華書店


劉連仁さんが語ったこと

  劉連仁さんが語ったこと

         劉連仁生還記念碑を伝える会 
         顧問・前会長 大澤 勉
 
   劉連仁さんが、当別の山中で保護され、中国に生還後33年振りに当別町を訪れたのは、1991年10月22日でした。
 劉さんは駅の人波の中から、文字通り聳え立つ様に姿を現したのですが、見上げる様な長身で、あたりを払う風貌に心うたれたことが深く印象に残っています。日程のメインになったのは町民との歓迎交流会で、司会をしたのは今は亡き山崎幸さんでした。
 劉さんは御子息の煥新さんも同席され、参加者からの熱心な質問にも丁寧に答えてくれました。劉さんは山東省の方言を母語としているため、随行した通訳が理解できず、御子息の煥新さんが翻訳して伝えるという、いわば通訳二人を介しての応答になりました。
 私は一言も聞き漏らすまいとメモに集中していました。以下はその時の劉連仁さんが語ったことの一部です。(要約文責、大澤)
 「昨日、私は沼田の昭和炭鉱跡を訪れた。確かに見覚えが在った。そして何故、私がここまで来なければならなかったのが、誰の責任なのか、と問わずには居られなかった。
 こういう歴史の事実を、若い人達はしっかりと知ってほしい。逃亡中は苦しい事ばかり。今思い出しても涙が出る。何度も自殺を考えたが、それでは誰にもわからない。
 何としても生き抜いて、家族のいる祖国へ帰り、この事実を伝えねばと心に決めた。
 それだけが逃亡中の支えとなった。
 帰国して初めて見る息子(煥新)は13歳になっていた。私は再会した家族と、ただ抱き合って泣いた。今、若い人達に伝えておきたい事は、『かっての歴史を未来の為に忘れないで欲しい』ということだ。山の中での13年半の年月は、人間の生活ではなかった。戦争さえなければ・・・戦争はいつも起こす者ではなく、罪なき人、弱き者が犠牲になるのだ。この事だけは肝に銘じてほしいと心から願っている。」
 劉連仁さんは、この年を初回としてその後2度にわたって当別町を訪れ、町民との草の根交流を深めましたが、その中から生還記念碑建立の気運が高まり、2002年の完成へと発展していったのです。只、劉連仁さんは2000年9月に、碑の完成を見ることなく逝去されました。本当に痛恨の極みでした。
 初来町から30年を経た今でも、あの大きな手の部厚く柔らかい温もりがリアルによみがえるのです。

6月27日に予定していた 第56回中国人殉難者全道慰霊祭は 9月26日に延期します

  5月19日に予定していた日中友好協会北海道連理事会は、コロナの感染拡大で札幌・北海道に緊急事態宣言が発令中であり中止し、文書理事会としました。

 19日は、鴫谷節夫会長、小川勝美理事長、影浦貞宏事務局長の3氏で会議を開き、文書理事会の議案を検討しました。

 差し迫った課題である、第56回中国人殉難者全道慰霊祭は、9月26日に延期して開催します。

 室蘭の第29回中国人殉難者慰霊の集いなどを予定しています。

 6月12日開催の第70回日中友好協会オンライン大会には、鴫谷節夫道連会長と蔦保収苫小牧支部事務局長が代議員として、伊藤貞市苫小牧支部長、原聰釧路支部長、影浦貞宏道連事務局長の3氏は評議員として、小川勝美理事長は本部役員としてこの大会に参加します。

 太極拳サークル活動や中国語教室などについても、ワクチン接種による感染状況を見ながら取り組んでいきます。

 また、昨年度の決算は、コロナ禍で思うような活動ができず、旅費を始め各種支出が減少し、黒字決算となりました。予算もコロナ禍を想定して抑えた予算になりました。

【雑誌「世界」 昭和35年5月号の特集

 【雑誌「世界」】昭和35年5月号の特集

          劉連仁さんの思い出(5)

               日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫

中国人強制連行の問題は終戦直後米占領軍によって摘発された秋田県花岡事件によって知られています。

 1953年3月に結成された「中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会」は多くの民間団体が結集し、中国人強制連行殉難状況の調査・中国人殉難者の慰霊・遺骨の収集、送還などに取組み、その成果は雑誌「世界」昭和35年5月号に特集「戦時中における中国人強制連行の記録」として発表されました。特集の中心となる【報告】戦時下における中国人強制連行の記録は、38ページもあり衝撃的な内容でした。


 中野好夫氏は「この報告を読んで」という4ページの文章を寄せ、花岡事件とともに劉連仁事件についても触れています

・・また本稿にも出る秋田県花岡における中国人虐殺事件などについても、詳細はともかく、一応その輪郭は知っていた。さらに一昨年明らかになった、ほとんど事実とは思えないほどの劉連仁事件なども、この問題のもつ戦慄すべき深刻さをわたしたちに反省させないではおかなかったはずだ。

・・・いまこの詳細な総合的報告を読んでみて思うことは、わたしなどが知っていると考えていたことなどは、このおそるべき巨大な事実の実に九牛の一毛というか、片鱗というか、ほとんど知っていたなどとは言えるものでないことを、いまさらながら教えられたからである。しかも加害者である日本人のわたしたちが知らなかったというところに、実に大きな問題があると思う。・・・


 劉連仁事件の本質が約百人が虐殺された花岡事件と匹敵するという中野氏の指摘は、今回読み返してみて私自身深く考えさせられました。劉連仁さんが東京地裁に提訴した真意を改めていま考えています。

 なおこの特集を受けて、「世界6月号」には、【座談会】われわれは中国人に何をしたか❘「中国人強制連行の記録を読んで」❘も載っています。聞く人が谷川徹三氏で、元軍人の藤田茂、国友俊太郎、五十嵐基久の3氏が話し合っています。


2021年5月11日火曜日

私と中国 帯広市 本川 功市

  私は昭和18年、旧満州奉天(現瀋陽)で生まれました。父母は、新たな生きる場として上3人の子供を連れて大陸に渡っていたのです。

 働き場所は満州鉄道系列の炭鉱です。そこで係員として働き、現地の中国の人たちと一緒に働き随分と仲良くしていただいたとききます。しかし敗戦、ご多分に漏れず大変な思いをしながら帰国・・・。

引き上げ時私は3歳、中国の記憶も引き上げの記憶も全くありません。しかし生まれ故郷、物心ついたころから一度は中国に行ってみたいと思っていました。

 やっと訪ねることが出来たのは60歳を過ぎてからのことでした。夫婦と長男、引き上げ時8歳だった長姉の4人で生まれ故郷を探して歩きました。どうやらそれらしい所までは行きましたが、そこが本当に故郷なのか遂に分らずじまいでした・・・。炭住などは在りませんでした。逆に、日本軍が中国人を虐殺して埋めたという万人坑などを目にし、心を痛める旅となりました。

 しかし、私は中国の大地が好きでもう20回近く訪れています。もう何回か行きたいと願っていますがこのコロナ禍、そして今の習近平政権には恐怖さえ覚えます。正常に戻るにはどちらもしばらく時間が必要なようです。

 80歳を目前にした今、中国旅行はもう無理かとも思いますが一日も早く自由に往来ができる日を願っています。

【席占明さん文書】 劉連仁さんの思い出(4) 日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫

 【席占明さん文書】劉連仁さんの思い出(4)

          日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫

 私が日本中国友好協会に参加したのは、1960年の夏でした。この年はご存じのように60年安保の大闘争が全国を席巻した年で、6月の山場には全国各地で上京抗議団が組織され、北海道からも全道労協を中心に強力な抗議団が上京しました 

 私は北海道高教組代表団の一員として参加し、その時知合った小樽支部の相場実さんに誘って貰って日中友好運動に生涯関わることになりました。

 今回劉さんの事を書くために資料を整理していると「席占明さん文書」と自筆した袋が出てきました。その中に「劉連仁の帰国前後」という題の講演記録(2000年12月8日)がありました。帰国直後(天津)の劉さんの様子を欧陽文彬記者が回想した一節があったので紹介します。

 翌日欧陽さんが、よく眠れましたか?と聞くと、思わず劉さんが泣きだしました。どうしたのかと聞くと、「俺はもう普通の人並みの生活ができなくなった。北海道の気候は寒く冬は長い。山の洞窟の中で寒さをしのがねばならず、暖かい日に穴から出るくらいで、あとは昼となく夜となく穴の中で縮こまっているだけ。林の中で野宿するときはクマの襲撃を注意するため熟睡できない。一晩に何十回もびっくりして目が覚める。いまベットがあってもうまく眠れない」と言いました彼女は、大の男が泣いているのを本当にたまらない。

 昭和炭坑での虐待、山での苦難でも泣いたことがないのに。これは相当のショックを受けたのだと思うと回想しています。




 席占明さんがこの講演をした2000年9月2日に劉連仁さんは87歳で亡くなっています。



2021年4月6日火曜日

図書館の自由

 図書館の自由

 日中友好協会会員・北海道議会議員(日本共産党)
                    宮川 潤
札幌弁護士会の調査で、10図書館が「警察から照会を受けていた」ことが判明し、道議会で取り上げました。
 この「照会」は、刑事訴訟法197条第2項「捜査について・・・必要な事項の報告を求めることができる」によるもので、裁判官の令状の無いものです。
 戦前・戦中の図書館は、「思想問題対策として・・・(長野)県下図館(ママ)から赤い本を駆逐」(「戦前期図書館統制の研究」小黒浩司)と思想調査の対象となり、「図書館長・・・は、マルクス主義に関する数冊を発見し、ただちに撤回(同)と自己規制に陥りました。
 戦後、「図書館の自由に関する宣言」(日本図書館協会綱領)が、「国民に対する『思想善導』の機関として、国民の知る自由を妨げる役割さえ果たした歴史的事実があることを忘れてはならない。図書館は、この反省の上に、国民の知る自由を守り、ひろげていく責任を果たす」と、宣言したのです。
 私は、「『照会』に回答すべきでない・・・『宣言』を全面的に本道図書館行政に生かすべき」と質問しました。
 教育長は、令状の無い「照会」には原則として答えないこと、「知る自由、表現の自由といった『宣言』の理念を尊重し、実践していくことが大切」と前向きの考え方を示しました。
 図書館の自由が宣言されていても、こっそりそれを侵そうとする動きが現れてきます。憲法第12条は、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」としています。私たちは、自由を侵そうとするものの動きを油断なく監視し、自由を守る不断の努力を惜しまないことを改めて誓いあいたいと思います。

【運命の糸に導かれて】     劉連仁さんの思い出(3)

 【運命の糸に導かれて】  劉連仁さんの思い出(3)

                  日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫

 昭和20年7月末、劉連仁さんが明治鉱業・昭和鉱業所から仲間5人で脱走した時、私は遠く離れた岡山県後月郡西江原町の国民学校4年生でした。食料増産が叫ばれ、3年生以上は山奥の開墾と薩摩芋の植え付けに駆り出されていました。

 米空軍の空襲で阪神方面は元より近くの岡山は6月29日未明、福山は8月8日深夜焼き払われ、8月6日は夏休み中だったが、数日後全員登校で「広島新型爆弾恐るるに足らず」と訓示され、15日は6年生の兄が昼すぎに帰ってきて、「日本は負けた」と言ったが日頃叫ばれていた「一億玉砕」の話は出ませんでした。

 この頃劉さん達仲間は3人になって、羽幌付近を線路沿いに北に進んでいました。北に進んでいけば朝鮮と陸続きで、満州まで歩いて行けるのではないかと考えたそうです。

 戦争が終わって9年目、1954年4月私は幸運にも広島大学教育学部に進むことが出来ました。ここには珍しい「高校教員養成課程」がありその中の国語科です。その年3月ビキニ水爆実験があり、55年に第1回原水爆禁止世界大会が広島で開かれました。

 1958年2月劉さんは当別で発見され、4月10日白山丸で帰国し、私は同じ4月教員になって俱知安農業高校に赴任しました。

 運命の糸に導かれるように劉さんとの接点が生まれ、小林多喜二に憧れて北海道に来た私の、やるべきことの一つが出来たことになります。 

2021年3月12日金曜日

 日本共産党元衆議院議員 児玉健次さんのご冥福を 心からお祈り申し上げます

  日本共産党元衆議院議員 児玉健次さんの ご冥福を心からお祈り申し上げます。

 今年2月24日、誤嚥性肺炎でお亡くなりになった児玉健次さんは、私たち日中友好協会北海道支部連合会がもっとも大きな活動の柱としている「中国人殉難者全道慰霊祭」に、第28回の1992年から賛同され、2004年の第39回以降、昨年の55回までの長きにわたって世話人を務められました。

 皆さんもご承知の通り国会議員在任中の児玉さんは、長身で穏やかな語り口ながら、ずばりと切り込む質問内容は保守革新を問わず大変定評がありました。

 当時自民党の箕輪登さんが自衛隊のイラク派兵に異論を唱え訴訟を起こした時、社会党の竹村泰子さんら様々な政治的立場の人と共闘したのを思い出します。今、まさに市民と野党の協力で日本を変えようという戦いの原点を見る思いです。

 話を戻しますが、旅システムが主催し、日中友好協会が協賛した「第2回天津烈士陵園参観ツアー」(2012年3月)が企画され、山崎幸さん(当時日中道連会長)が団長、児玉健次さんが副団長、総勢19人の参加で行いました。

 目的は2010年に奉納した中国人殉難者慰霊観音像と一緒に持っていかれなかった厨子を届けるというものでした。

 帰国後児玉健次さんは、日中友好新聞札幌版に「一昨年山崎会長らが奉納した観音像が中央に安置され、納骨館の二、三一六体の遺骨を前に私はしばらく立ちすくみました」。

 そして夕刻の烈士陵園の方々との交流会で、乾杯の挨拶の中で「私の父は一九四四年に天津の華北交通の幹部の一人として、中国の侵略行為に加わりました。私は、その子息として中国の方々にお詫びするために参りました、と話したところ、交流の中で中国の一人の方が、『先ほどの挨拶に感動しました』と声をかけてくださったことが私の心に沁みました」と書かれています。

 こうした人間味溢れる人を失って、実に残念でありません。心からご冥福をお祈り申し上げます。

                日中友好協会北海道連事務局長 影浦貞宏

たかが俳句   竹内 狐草

 たかが俳句       竹内 狐草

 俳句の奥深さは、続けるうちにどんどん深みを増していくようである。気が付けば誘われてから三十数年が経ってしまった。たかが俳句と思っていたのが、今では日常生活の一端となっている。日常の小さなことにも感慨や風情を感じるようになり、限りない句材を見つける愉しさは俳句をしなければ分らないのである。今、日本語は大きく変化しており古来の日本語は消えゆく存在では無かろうか。俳句も時代と共に変化して口語句が多くなって来ている。俳句の本来の抒情は、文語体を駆使することにより生まれるものと思っている。私に残された時間はどの位なのか知る由もないが、俳句を作れるかぎり日本語の美したを追求したいと思っている。

   髪切って颯爽と行く枯葉道    狐草

  三日はや常の暮らしに戻りけり 狐草

  抱かれて木の芽に触るる男の子 狐草

 

 以前、友人から中国旅行を提案されたが飛行機嫌いの私は提案に乗れなかった。でも中国の風物には関心があり、シルクロードや万里の長城・山岳民族等のテレビ映像は出来るだけ見るようにしている。中国が列車や船で行ける所であれば是非行きたいと思っているが、年々行動範囲が狭まって来ているので難しいかも知れない。亡くなった叔父は何度も中国を訪れ、思想は別にして良い所だと何度も話していたことが思い出される。

                  アカシア俳句会主宰

                                                     日本中国友好協会会員

                 

【席占明さん❘  よくも、この時、こんな人が】

 【席占明さん よくも、この時、こんな人が】

    劉連仁さんの思い出(2)

            日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫

 奇蹟を起こしたのは、勿論山東農民である劉さん自身の体力、気力、生活力ですが、救出に関わった袴田さん、木屋路さんなどの行動も奇蹟的です。一歩間違えば、劉さんの命は無かったかも知れないと私は思っています。

 札幌華僑総会の席占明さんは、よくこんな人が、この時、この札幌に居たものだと驚嘆します。席さんが東京華僑総会に送った膨大な通信を見ると、もし席さんが居なかったら劉さんの事件はウヤムヤになってしまったのでないかと感じます。帰国後三十八年目に日本で裁判を起こし、人類史に残る判決を勝ち取ることもなかったでしょう。

 劉連仁さんのことを中国で詳しく最初に報せたのは上海「新民晩報」で、その記事を書いた欧陽文彬(オウヤンウェンビン)さんに詳細な資料を提供したのは席さんでした。日本では、劉さんの生還の翌年1959年2月に早くも「穴にかくれて十四年 中国人俘虜劉連仁の記録」(1959年2月20日初版発行新読書社定価220円)として出版され、劉さんの奇蹟を一気に日本中に広めました。 実は私はこの本の存在を知らなかったのですが「知っていますか」を出版した時、題字をお願いした田嶋光子さん(北海道母親大会連絡会実行委員長)からプレゼントされました。この貴重な資料が手に入ったのも奇蹟だと思います。 

2021年2月9日火曜日

劉連仁さんの思い出(1)  【天網恢恢、疎而不失】

  1月号に掲載した劉連仁裁判資料集出版に向けたオンラインシンポジウムにおける鴫谷節夫道連会長の発言をもとに、新聞用に加筆修正して数回に分けて掲載します。


    劉連仁さんの思い出(1)

 【天網恢恢、疎而不失】

 劉連仁さんのことを想う時、いつも「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉が浮かんで来ます。

 日本軍国主義政府が行った膨大な悪業の中でも、日本本土を舞台に展開された「中国人強制連行・強制労働・虐殺事件」はその最たるものです。

 日中友好協会北海道支部連合会は1966年から中国人殉難者慰霊祭を挙行し、その基礎資料となる「知っていますか・北海道での中国人強制連行・全道五十八事業場殉難の記録」を1989年5月に刊行しました。この年は日中友好協会全国大会が北海道で初めて開催され(第38回 定山渓・5月)、中国人殉難者全道慰霊祭は24回(6月・後志仁木町)を数えました。

 この資料によって明らかになった虐殺の実態は目を覆うものです。わずか2年足らずの間に北海道での死者3047名、死亡率18・7%、40%を超える事業場が2か所、30%を超えるものが4か所、まさに虐殺・万人坑です。

 劉連仁さんの生還は、強制連行から考えると奇蹟としか言いようがないものだと思っています。人知を越えた「天の意志」❘悪行の生き証人を日本人のために残してくれた「天の配慮」です。少し神がかっていると思いますが私はこう考えると勇気が湧いてきます。                     (つづく)

2021年1月15日金曜日

中国語教室も今年初めて開講

 中国語教室も今年初めて開講


1月9日(土)支部事務所で今年初めての中国語教室を開講しました。

 中級Ⅱのクラスで、楊志剛先生のもと、生徒さん2人で和気あいあいと進めました。

 熊征先生は、初級クラス1人と上級クラス2人を、自宅からパソコンのオンラインで中国語教室をすすめました。

日中友好協会札幌支部の 太極拳サークル  かでる2・7で初練習

 日中友好協会札幌支部の太極拳サークル

       かでる2・7で初練習


 2021年1月8日(金)の午後、かでる2・7のレクレーション研修室(3面がガラス張り)で、今年初めての練習を行いました。

 今回の参加者は、八十八式と四十八式のグループでした。参加者は10人でしたが、準備体操に続いて定位太極拳、二十四式を表演しました。その後、各々グループに分かれて練習をしました。

 休憩後は全員で二十四式、八十八式、四十八式を音楽に合わせて表演をし、久しぶりに心ち好い汗をかきました。今年もささやかではありますが、おやつを用意しました。

 次回、1月15日は、四十二式、陳式グループの初稽古を予定しております。

 今年もコロナ禍の中、サークル員のご協力をお願いし、練習を続けていきたいと思います。

「劉連仁裁判資料集」出版へ

 「劉連仁裁判資料集」出版へ

❘オンライン・シンポジュウム開催❘

   日中友好協会北海道連 会長 鴫谷 節夫


 昨年12月12日「戦争の歴史に向き合う~中国人強制連行裁判(劉連仁裁判)資料集刊行にあたって~というオンライン・シンポジュウムが開催されました。

 これは裁判資料の散逸を防ぐために「すいれん舎(社長高橋雅人氏)」の協力により「劉連仁資料集」出版の事業が進む中で、資料編集責任者関礼子氏(立教大学社会学部)の呼び掛けで開催されました。

 最初に、すいれん舎・高橋雅人社長の挨拶がありました。発言者はこの裁判に深く関わった小野寺利孝、森田太三、田中貴文の各弁護士の皆さんですが、劉連仁さんとの関りが深いということで札幌郷土を掘る会小松豊さんと鴫谷が依頼を受け発言しました。

 私のテーマは「日中友好協会と劉連仁」という事だったので短い時間で何を話すか、大変考えました。私たちと劉連仁さんの交流は長い歴史があり、亡きあとも劉煥新さんさらに劉利さんにつながるものですから前日までやっと2千字あまりの意の尽くせぬ原稿ができました。当日は相手の見えぬ画面に向かって夢中でしゃべって冷汗をかいて終わりました。

 私は日中本部に在った劉連仁関係の資料を借りて整理し、1991年6月から1992年9月までの間に劉連仁資料、その一からその三まで手作りの冊子にしました。その資料は確かに裁判でも使われたと思い出したので資料集にいれて欲しいとお願いしたら、関教授からそれは入れる予定になっていると言われました。

 私の発言も機会があったら紹介したいと思います。