2022年5月24日火曜日

第8回実行委員会

  第8回歴史・人権・平和基金(三菱マテリアル基金)記念碑建立実行委員会は、3月8日に開催され、三菱マテリアルから提起された3か所の候補地について検討。ゴールデンウイーク明けに、美唄の現地を視察することになりました。記念碑建立の石材業者についても協議し、美唄支部の推薦があるかを問い合わせ、第9回実行委員会で検討することになりました。

『四、建立した場所と除幕式』

 『四、建立した場所と除幕式』

 「中国烈士園 日中不再戦友好碑建立の経過

   在余市郡仁木町共同墓地内」より      

                  劉連仁さんの思い出(15)

           日中友好協会北海道連 会長 鴫谷 節夫


 前回に続き引用します。~(建立した場所)~

 建立した場所は函館本線二木駅より一粁程離れた、風光明媚な果樹園に囲まれ、はるか日本海が望まれる丘の上で、仁木町共同墓地内にあります。土地は仁木町より無償で660平方米(200坪)提供され、間口一〇米、奥行二〇米、高さ一・五米の石垣を築き、碑石は高さ五米の大理石、碑の前の広場は玉石を敷きつめてあります。又今日までニ回にわたって補修を行い、周囲に植樹しました。

 ~(除幕式)~

 昭和四十一年十月二十九日、中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会会長大谷瑩潤氏を迎え除幕式記念慰霊祭を行いました。この日実行委員会役員をはじめ各界代表二百余名列席し、小樽仏教会六十名の僧侶の読経の中でしめやかに法要が行われ、とくにこの日小樽仏教会会長泉勢誠氏より毎年の慰霊祭に協力奉仕することが発表され、今日までつゞいております。又毎年の慰霊祭は七・七盧溝橋事件を記念して全道規模で行い、特に後志管内二十市町村が積極的に協力参加されていることは、全国的に見ても注目すべき事であります。

 尚この中国烈士園「日中友好不再戦碑」には、昭和二十年の春、小樽市の港湾で強制労働で犠牲になった五名の殉難者も合葬してあります。

 ◇碑の表面題字は大谷瑩潤氏の筆で、裏面は郭沫若氏が中国より墓碑銘として寄せられたものであります。




 一九六五年十一月十日

     為記念 郭沫若

      中国殉難烈士


「日本中国友好協会小樽支部輝く十五年の歩み」に次のように書かれています。

 

 この碑の建立は支部創立以来最も大きな事業であって、一年有余の調査の結果各界代表八〇名によって実行委員会を構成し、特に前年訪中した小樽経済友好視察団に参加した方々の協力は非常に大きなものがありました。

 

 仁木町の「中国烈士園・日中友好不再戦碑」は全国に例を見ない壮大なものです。直後に勃発した「文化大革命」と対峙し、その本質を明らかにし、北海道で中国人殉難者慰霊祭の輪を広げて伝えていく思想闘争が必要になっていました。

                 (つづく)

 真珠湾攻撃から 東京大空襲・広島・長崎へ

  真珠湾攻撃から

   東京大空襲・広島・長崎へ

      ❘敵基地攻撃能力保有の末路❘(上)

              日中友好協会道連会長 鴫谷 節夫

 「12月8日と シンガポール陥落」

 昭和16年12月8日、日本海軍の機動部隊が極秘裏にハワイ島の米軍基地に接近し、航空機による奇襲攻撃を行った。このとき私は国民学校入学直前で何も覚えていないが、どういうわけか12月8日というと寒い天気の早朝、稲刈りが済んだ田圃の落穂に霜が降りて、それに陽が当ってキラキラ輝いている情景が浮かぶ。

 翌17年に一年生になって間もなく、学校でシンガポール陥落のお祝いというものが配給になった。軟式のテニスボールのようなものだったが数が足りない。くじ引きになって、くじ運の悪い私は当然貰えなかった。見たところ粗末なゴムで、そんなに欲しいとも思わなかったが、お祝いだから全員に一個づつ当たるのが当然だと思っていたので、今でも思い出すと腹が立つ。

  「ルーズベルトの敵討ち    4月18日日本初空襲」

 この初空襲についてはなんの記憶もないが、のちに書かれたものを見ると、アメリカ軍の「通り魔にも似た奇襲爆撃」であった。空襲による被害者は、死者五〇名、負傷者四〇〇名以上、家屋約二〇〇戸全半壊などであった。

 最近入手した「日本大空襲『実行犯』の告白」によれば、この日本初空襲という無謀な作戦は、ルーズベルトがアーノルドに命令したものである。「その空襲に対し、ルーズベルトは日本への報復を強く求める。『日本本土を爆撃する手立てを一刻も早く考えよ』と檄を飛ばし、作戦計画の立案を命じていた。航空軍は国のために貢献できることを示さなければならなかった。復讐心からルーズベルトは早急に結果を求めていたがアーノルドは頭を悩ませたという。」 (新潮文庫)

『三、企画と建立の経過』

 『三、企画と建立の経過』

 リーフ「中国烈士園日中不再戦友好碑建立の経過             

     在北海道余市郡仁木町共同墓地内」より      

                  劉連仁さんの思い出(14)

          日中友好協会北海道連 会長 鴫谷 節夫


  前回に続いて、標記のリーフより次のとおり引用します。

 

 小樽支部は、田浦事務局長の報告をもとに、本部及び道連と連絡をとりながら友好碑建立の企画に入りました。とくに企画するにおいて特記しなければならないことは、高木仁木町長の厚意ある協力であります。「私はかって戦争で中国へ行ったことがありましたので、この役場に勤めてから今日まで、大江鉱山の殉難者のことがいつも気にかけてきましたが、このたび日中友好協会の友好碑建立の趣旨を聞いて、地元町長としてだけでなく、私個人の意志としても積極的に町議会にはかり、立派な碑を建てて犠牲者の霊に報えたいと思います。これについていろいろ困難な問題もあるでしょうが、どうかなんなりと遠慮なく相談していただきたい。」

という高木町長の申出でが支部役員を大きく勇気づけました。そしてその後この言葉通り、敷地問題や鉱山側との折衝等に先頭にたってくれました。

 建立実行委員会は中国人俘虜殉難者実行委員会会長大谷瑩潤氏をはじめ、本部・道連役員をふくめ自治体・経済・文化・労働・青年・婦人・民主団体の代表八十余名で構成しましたが、特に協会役員・活動家と訪中した各界の人々が中心的役割を果たしました。これら役員の方々から百四十余万円の浄財が寄せられ、又報道関係の協力によってこの友好碑建立をめぐって友好運動の重要性が多くの人々に更に深く理解されるようになりました。

 中国烈士園の構図は藤森茂男常任理事が担当し、設計を仁木町建設課長に委嘱し、工事監督を井上良次委員が責任を持たれました。又この募金活動のなかで、当時の日本鉱業はその後北進鉱業にかわったが、高木町長と実行委員会役員の説明をこころよく納得され、今日まで慰霊祭にも積極的に協力してくれております。 

 次回は烈士園の建設場所と除幕式について触れた個所を紹介します。

           (つづく)

戦地を訪ねて           

 戦地を訪ねて         十勝  長谷部悦子


 私の父は1910年、幕別町の開拓農家の4男に生れ小学校卒業後は農作業の毎日を送りました。20歳の兵役検査で甲種合格すると志願して旭川の第七師団に入営。1932年9月、出動命令が下され父は機関銃隊として満州へ出征しました。10月、奉天周辺の匪賊討伐。11月、北方へ移動。

 日記には「満州の匪賊を無くすには農民の若者に働き甲斐あらしむるのが一番の早道だろう」と書き、貧しく悲惨な志那人の日常に目をむけています。

 12月更に北へ、ソ連国境のハイラル、内モンゴルのコロンバイルへと行軍は続きます。

 日記には「想像していたとおり今年の年越し来年の元旦は歩きながら戦闘しながら送るのだ。明日敵にぶつかる事は確実らしい」と。

 1933年 2月 3月は南下。万里の長城のある熱河省での作戦に組み込まれ、中国正規軍との戦闘になり、長城の関所である喜峰口で攻防が繰り広げられました。

 父はこの戦闘で左上胸部に貫通銃創を受け重傷となり何か所もの病院で治療を受け、約50日後に旭川に戻り陸軍病院に入院しました。7ケ月余りの治療で故郷に帰りましたが、農作業に耐えられる体調にはならず、小学校の近くで文房具雑貨の店を開きました。父はこの店に「受益店森下商店」と名付けました。

 受益店とは、父が負傷した村の名前だったのです。

 日中戦争を研究している簔口先生から今も受益店村があると聞き、2019年3月下旬、先生と妹と3人で受益店村を訪ねました。私は、戦闘は荒野での闘いだったのだろうと思っていたのですが、そこには集落があり人々の暮らしがあり、どれだけの犠牲を強いたのか、と胸の詰まる思いで帰途につきました。90年も前に父が立っていた地は、今はダム湖の下になっていましたが、山容を眺めながらこのあたりかな と思ってきました。

 父はお茶箱一杯に遺品を残しました。軍服、日記、アルバムと一冊の綴りです。父が所属した機関銃中隊長が家族に向けた文書「ご家族の皆様の御子息を預り致す小官として」渡満以降の中隊行動表が送られていました。ガリ版刷りで隊員の様子も詳しくて驚きました。

          あの山容がそうかも知れないと、ダム湖にボートで乗り出し写真を撮りました。

                            左、妹(池田)、私、右、簔口先生

父森下明有が来ていた軍服です。左胸上部に小さな穴が見えます。昭和7年の軍隊日記です。1日も欠かさず記していました。

2022年2月18日金曜日

遺骨送還事業から不再戦碑建立へ   

 遺骨送還事業から不再戦碑建立へ

   協会14回大会特別決議

      道連・小樽支部の取組

        

      劉連仁さんの思い出(13)


         日中友好協会北海道連 会長 鴫谷 節夫


 日本中国友好協会は、九次にわたる中国人殉難者の遺骨送還運動が終結した1964年第14回大会で日中友好不再戦碑を建立しようという特別決議を行いました。

 前に書いたように札幌を訪れた李徳全女史一行は、到着したその日の午後、東本願寺で営まれた「中国人殉難慰霊祭」に出席しています。日本中国友好協会の特別決議「不再戦碑」建立はこの取組と一体をなすもので、以後の日中友好運動の根幹となる重要なものでした。

 日中友好協会北海道支部連合会も本部の特別決議を受けて、道内58事業場すべてに不再戦碑を建立するという方針を決め、その第一号として小樽支部が中心となって後志管内仁木町に建立する運動が始まりました。

 中国烈士園「日中友好不再戦碑建立の経過」というリーフ(日本中国友好協会北海道支部連合会・小樽支部)が残っていますので紹介します。



一、歴史的背景と殉難の経  過(省略)

二、不再戦碑建立までの調  査

 昭和三十八年五月の日本中国友好協会全国大会は、今まですすめて来た中国人俘虜殉難者の慰霊・遺骨送還事業を発展させ、日中友好不再戦友好碑の建立と全国的範囲での慰霊祭を行うことを決めました。協会は、日中友好運動は、かっての中国侵略の反省に立って、一日も早く国交回復を実現させ、日中両国人民永遠の友好を確立するという、素朴なそして厳粛な理念に立って運動をすすめてきた点から言って、それは当然なことであります。

 日本中国友好協会小樽支部(会長秋保充)は本部と道連から提供された一部資料を根拠に調査することを決定し、中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会の協力のもとに資料を集め、又戦後の国際裁判の記録などを参考に本格的な調査に入りました。

 昭和四十年三月中旬、小樽支部より派遣された田浦事務局長(現副理事長)は高橋宏忠氏(現仁木町議)の案内で仁木町役場を訪ね、担当の山口厚生係長(現教育長)に来訪の趣旨を説明したところ、山口氏が高木太市町長(故人)と打ち合わせた結果、こころよく関係資料を全部提出してくれることになりました。

これによって犠牲となった十二名の出身地・到着の年月日・死亡診断書等必要資料が全部そろったので、直ちに山口氏の案内で共同墓地に行き、幸いに火葬場の管理人伊藤孝丸さんの奥さん(先代管理人の娘さん)に会い、子供の頃父親からその箇所を知らされていたことから、一行は残雪のあるところを掘出して無縁仏を確認することができました。


                                    (つづく)           次回は企画と建立の経過

 中国と私    函館 丸尾 隆子(まるおりゅうこ )

  中国と私         函館 丸尾 隆子(まるおりゅうこ )


  私は晩年の母から、「満州に行きたい」と言われたことがありました。しかし高齢の両親を連れて中国に行く自信がなく、応えられなかったことがずっと心残りでした。

 私の両親は旧「満州」からの引揚者です。父は1917年生れ、母は1921年生れ。戦後、私は4人兄妹の末っ子として1955年に生れ、幼い頃から母の戦争の話を聞きながら育ちました。

 母は、18歳頃、姉夫婦を頼って「満州」に渡りました。「満鉄」に就職し電話交換手に。

 役所勤めの父と結婚、2人の子どもに恵まれました。その後父は現地召集されました。

 終戦、母は38度線を越えられず2歳の息子、0歳の娘と北朝鮮の収容所に入れられていました。飢えと寒さで子どもたちは次々と亡くなりました。父が母の収容所にたどり着いた時から逃避行がはじまり、京都舞鶴港に上陸しました。  

 2016年しんぶん赤旗に、「日中友好協会多摩支部・八王子支部 企画

 高句麗遺跡と大連・瀋陽・ハルピンをめぐる中国東北部・平和交流の旅」が載り、躊躇なく申込みました。

 旅行中、「満鉄」の大連の本社だった建物前で、両親の遺影を胸に写真を撮ることができ、長い間の宿題をやっと終えられたようで安堵しました。

 それ以降、同支部が企画の平和交流の旅に2019年まで連続4回参加しました。

 毎回、大学生との交流会も行われています。

 旅行先と大学は次の通りです。

 2016年 

ハルピン・瀋陽・撫順、集安、丹東、大連、旅順、遼寧大学

 2017年 

南京、蘇州、上海、南京林業大学

 2018年

西安、敦煌、陝西師範大学

 2019年 

昆明、元陽、サパ(ベトナム)、雲南大学

 遼寧大学の学生が私たちを「平和の使者」、南京林業大学の学生は「中国と日本の懸け橋になりたい」と発言したことが強く印象に残りました。

 旅行を機に私は、日中の平和と友好のために生きていきたいという思いに駆られています。

                           2020・2・1 春節を祝う会(八王子支部)
                                      雲南大学日本語学科の学生と交流