2020年4月24日金曜日

高橋忠明さんを悼む

 日中友好協会札幌支部理事
 高橋忠明さんを悼む
          札幌支部 事務局長 影浦 貞宏

 【最後の最後まで頑張り通しました】
 3月12日に奥様から「主人はもう長くないんです」と沈んだ声で連絡を受けて、22日目の4月3日に高橋さんは帰らぬ人となりました。
 今年の新年交流会に「今一、調子が悪いんで参加できない」という連絡を頂きました。それまでは一度も欠かすことなく参加されていたので、だいぶ具合が悪いのだろうかと心配していましたが、これほど早く逝ってしまわれるとは思ってもみませんでした。
 奥様の話では、最後の最後まで、ご自分で、トイレで用を済まされたそうです。
【無類の酒好きでした】
 高橋さんはお酒が好きな方で、二・三度一緒に飲む機会がありました。かなり以前の話ですが、高橋さんと小川勝美さん、そして私の酒好き3人が、新札幌で酒を酌み交わしました。帰りは私の妻を呼んで、小川さんと自宅まで送ることにしました。大麻扇町の何とかという、昔の小さな商店街まで行ったのですが、それから先の自分の家が分らない。やむなくご自宅に電話をかけましたら、ご家族が迎えに来てくれました。高橋さんは借りてきた猫のようにしょんぼりしていたのを思い出します。
【こうと決めたらテコでも動かない、頑固者】
 高橋さんはなかなかの頑固者でした。でも間違ったことは言っていません。いい加減が嫌い。曲がったことは大嫌い。でも私はそんな高橋さんを尊敬していました。顔に似合わずはにかみやで、例えば幼少時代の満州の話や北大時代の学内の要求闘争の話はするが、ご自身の家庭の話はあまりしませんでした。どこか渥美清的なところがあって。ご家族思いが垣間見えました。
【たくさんの蔵書を寄贈してくれました】
 事務所の事務局ノートによれば、2012年12月5日から、事務所に来る度に、ご自宅の重い蔵書を引っ提げて、バスと地下鉄を乗り継いで持って来られました。私は、感謝の気持ちを込めて「寄贈 高橋忠明氏」と末ページにシールを貼りました。昨年の11月20日、札幌支部理事会の時まで、蔵書の寄贈は続きました。実はその日がお会いした最後の日となりました。
 その時「影浦さん、これ貰ってくれないかい」と言って分厚くて古い本三冊、手渡してくれました。「これは日中に関係ない本だから」。それは「落語全集 上・中・下」巻でした。高橋さんのイメージとはちょっとかけ離れた本でした。
 その本と一緒にもう一冊「曠野の残像」という本を頂きました。編集・発行者 高橋忠明。その中に「一冊の本 落語全集 下」という回想文があります。その中にご自身を評して「いつも眉間にしわを寄せているお前に、似つかわしくない」と書いていらっしゃいました。
 満州の敦化というところで少年期をすごした当時の旧友と半世紀を経て再会した会話が主でしたが、最後のページにこの本のことが書かれています。
 敗戦になって中国人の暴動やソ連兵から逃れていた時、吉林駅で偶然隣に住んでいた岡村さんに出会い世話になる。妹はその家で亡くなった、その時その家から頂いたのが落語全集の下巻で、床に臥していた自分を慰めてくれた(上・中巻は日本に帰ってきてから、捜し求めたもの)。
 高橋さんは落語全集の「笑」と題した新渡戸稲造の序文を引用してこう記しています。
 「人生について考えても深い悲しみがあるにも関わらず、之の殆ど関係無きが如き浅はかな事柄が人生にあれば、その矛盾が著しく見えて可笑味を感ずる。故にユーモアを持つ者は心に深き憂いを抱く者に多い。」

《武漢支援募金》の経緯と 皆様へのお礼

《武漢支援募金》の経緯と
       皆様へのお礼
 吉田邦彦(北海道大学大学院法学研究科教授、           
                           南京師範大学兼職教授)

  これまで偶然武漢大学などで、報告・講演の機会があり、武漢市武正街については、論文を書いていて(拙著・都市居住・災害復興・戦争補償と批判的「法の支配」(有斐閣、2011,98頁以下)、中国の諸都市の中でも武漢は、私には、もっとも縁が深い場所になっていました。今年1月23日の都市封鎖以来、華中師範大学に赴任した教え子の李雯静さんには、メールが届かなくなり、ようやく1ケ月ほどして、2月中旬、たまたま手帳に書き付けてあった電話番号で彼女に繋がりました。その時李さんは、辛い生活をしていて、絶句して電話の向こうで泣いており、こちらも胸が詰まり、「武漢は今大変です。でも何も心配しないでください。郵便物など届きませんですから」との片言の返事でした。そして、「札幌では長い間お世話になりました」と過去形で話すのを聴き、ものすごい恐怖にさらされていることを察知し、涙が止まりませんでした(李さんとはそれまで屡々メールでやり取りしており、眼科医のお母様が、乳癌に倒れられ、看病・介護で昨年は本当に疲れたので、もう故郷の長沙に戻りたいと言っていた矢先の、春節直前の都市封鎖でした)。
 「何もするな」と言われても、では一体何を彼女にしてあげられるのだろうか、と途方に暮れました。間もなく上海の弁護士の許晨君から連絡があり、「寄付くらいしかできないだろう」とアドバイスを受けましたが、無力な自分でもできるのかと躊躇しました。しかしそこで思い出されたのは、個人的にも面識があった、昨年凶弾に倒れた故中村哲医師の『吉田さん、思いついたら、どんな小さなことでも自分からやり出さなければいけない』という言葉でした。そこで札幌中国領事館の兪昂さんに電話してこの事情を申し上げたら、領事館としても応援すると仰ってくださり、何といっても、日中友好協会札幌支部の小川勝美理事長が二つ返事で、全面的に協力して下さいました。お礼の言葉もなく、草の根の市民の皆さんの善意を間近に見る思いで、嫌なことが多い昨今、李さんのおかげでよい思いをさせていただき、逆に私は、彼女に感謝しています。
 ほぼ同時期に、南京師範大学の趙莉教授から、僕の教え子の蘇州で弁護士をしている何天宏君(南京大学卒)ら上海圏の弁護士仲間で(彼も仁木の慰霊祭に行っているので、小川さんはご存じだと思います)、北大に沢山のマスクを送ってくれたことを知らされて、彼らの思いの深さに感銘を受けるとともに、こうした草の根の日中友好の連帯が広がっているのを実感しています。(同君は、日中友好協会の我々の動きを知っており、おそらくそれに呼応する動きだと思います)。
 今やコロナウイルス問題は、世界的なパンデミックをもたらし、楽観を許さない状況です。武漢も4月8日に都市封鎖が解除されても、従来通り制約の多い都市生活は何も変わっていないことは報ぜられています。 駐米中国大使の崔天凱氏が強調されるように、今コロナウイルスと立ち向かうために求められているのは、《米中、そして世界の連帯》ではないでしょうか。武漢からは数多くの学ぶところがあると思います。我々が行ったことはごくささやかなことでしたが、今後長期戦を強いられるこの世界的試練にどう対処したら良いのかを、これを機縁に皆様とともに考えたいです。
 日中友好協会の皆様、ご協力、本当に有り難うございました。
                                 武漢大学で李さんたちと
          下は華中師範大学での講演後に李さんたちと

2020年4月6日月曜日

 美唄への三菱マテリアル基金記念碑  来年10月に除幕式を

 美唄への三菱マテリアル基金記念碑
 来年10月に除幕式を

3月31日、おおぞら法律事務所で、第4回記念碑建立・追悼事業北海道実行委員会が開催されました。
 田中貴文弁護士から、全国連絡会の報告や安田侃氏・琢氏との打ち合わせや契約書案などについて報告が行われました。北京での管理委員会が新コロナウイルスで中止になりましたが、4月26日に全国連絡会が開かれて、記念碑建立の予算配分などが確定したら、安田さん側と契約を行う。 制作・設置に1年間かかるので、来年10月10日(日)に除幕式を行うことでどうかとの提案があり、参加者で協議して決定しました。
 記念碑とともに、中国人被害者1637人の刻銘版をステンレス版に刻み設置するなどを確認しました。