2022年5月24日火曜日

日中国交回復3000万署名と「文化大革命」

  日中国交回復3000万署名と「文化大革命」     

                    劉連仁さんの思い出(16)

      日中友好協会北海道連 会長 鴫谷 節夫


 60年安保闘争の高揚を受け、「中国封じ込め反対日中国交回復」を求める運動が広がってきました。

 1964年1月、フランスが中国との国交回復したことにより2月には「各界代表25氏のよびかけ」が発表されました。それは次の三点を日本政府に要求するものでした。

①中華人民共和国との国交を即時回復し、貿易・経済・文化の交流を拡大すること。②日台条約を破棄し、台湾との不正常な関係を清算すること。

③中華人民共和国の国連における正常な地位の回復のために努力すること。

 このよびかけは広範な国民的支持を得て、「日中国交回復3000万署名」が始まり、翌1965年2月には「日中国交回復推進連絡会議」が結成され、地方にもこのような組織が広がってきました。

 日中道連と小樽支部も丁度このような日中友好運動の全国的高揚と連帯して、仁木町に実に壮大な「中国烈士園・日中不再戦友好碑」を建立することができたと考えます。

 しかし1966年は、2月から3月にかけて三ヶ国訪問を行った日本共産党代表団が最後に毛沢東との会談で共同コミュニケを破棄される事件が起きています。7月には毛沢東談話で日本共産党を主敵の一つとする「四つの敵」論が定式化しています。8月には毛沢東が紅衛兵を謁見し、紅衛兵運動が全国に広まります。翌年1月には紅衛兵が日本共産党を攻撃します。もし仁木町の友好碑建設計画が一年遅れていたらと思うとこの絶妙なタイミングは中国人殉難者の思いがこもっていると考えます。 

 フクシマから11年 ~被災地と被災者の現在~ 

  青年法律家協会北海道支部主催

 2022憲法フェスティバル

         フクシマから11年

 ~被災地と被災者の現在~ 


  4月23日(土)かでる2・7において、青年法律家協会北海道支部主催の2022憲法フェスティバルが開催され、4階大会議室にスペースを開けて約50人が参加、オンラインで約百人が参加しました。

 吉田玲英支部事務局長は、講師の青木さんは札幌北高時代の同級生などと紹介し開会挨拶をしました。

 「いないことにされる私たち」と題して講演に立った青木美希さんは、北大後入社したタイムスは半年で潰れ、道新に移り、約百億円もの「道警裏金問題」を取材し、取材班で菊池寛賞、新聞協会賞などを受賞したことを述べ、これらの取材活動から朝日新聞にスカウトされたことを自己自己紹介しました。

 安倍首相が「アンダーコントロール」などと述べたが、福島第一原発の被害は、今年1月相馬沖で水揚げされたクロソイから1400ベクトルのセシウムが検出され、国が出荷制限を指示するなどいまも被害が続いていると告発しました。また、ウクライナの事例もあげ原発は戦争で攻撃対象になる。世田谷区長の言葉を引用し「また事故が起こる国に」などと講演しました。

   福島伊達市で15歳のわかなさんは午前中学の卒業式、午後自宅にて地震に、山形に避難後北海道にあった被災の体験を話す。地震後福島から札幌厚別区に避難した宍戸隆子さんは避難者同士の助け合いのために「桜会」という自治会活動などを報告しました。

  田中貴文支部長がウクライナや平頂山事件などをあげながら閉会挨拶しました。


 真珠湾攻撃から 東京大空襲・広島・長崎へ

  真珠湾攻撃から

   東京大空襲・広島・長崎へ

          ❘敵基地攻撃能力保有の末路❘(中)

              日中友好協会道連会長 鴫谷 節夫


 「日本海軍の敵基地攻撃能力とはどんなものか」

 真珠湾を攻撃した「大日本海軍最精鋭の機動部隊」は「赤城・加賀・蒼竜・飛

竜・翔鶴・瑞鶴という六隻の航空母艦を中心に、比叡・霧島の戦艦、利根・筑摩の重巡洋艦、九軍神で有名な特殊潜航艇をつみこんだ五隻の伊号潜水艦など三一隻の編成であった。

 真珠湾内の米戦艦群と軍事施設を直接攻撃した第一次攻撃隊は一八三機第二次攻撃隊は一六七機で、いずれも零式艦上戦闘機(零戦)に援護された九七式艦上爆撃機からなるものであった。

 日本の最後通牒が米側にとどけられたのは日本の攻撃が始まってから一時間もあとで、全くの「だまし打ち」、防戦のしようもなく大きな被害をうけた。撃沈戦艦四隻、撃破戦艦四隻巡洋艦三隻、破壊された飛行機二三一機、死傷者は軍人三六八一名、民間人一〇三名にのぼった。

 「支那事変戦記 海軍航空戦 海軍中佐 阿部信夫編著 昭和十四年六月二十八日発行 大日本雄弁会講談社」

 この本のはじめの方に自序がある。

 

 本書は我が海の荒鷲に捧ぐる感謝感激の記念帖である。同時に又、世界大戦乱の前夜を思わしむ現下の危局に際し、我が一億同胞に向かって打鳴らす航空国防強化の警鐘でもある。

 さきに「海の荒鷲奮戦記を普く江湖に贈ったのは、まだ事変も初期、昭和十二年の暮れ、敵の首都南京が陥落したばかりの時であった。爾来、聖戦ここに満二ヶ年になんなんとし、今や硝煙支那大陸を掩い、海鷲四百余州をその鵬翼下に収るに至ったわけである。

 かくて前書も亦ここに其の面目を全く一新して再び読者と相見ゆるに至った。


 こうして出版されたこの本は337頁の大部なもので、付録の「海の荒鷲空爆撃墜一覧表」も昭和十二年八月十四日から十四年五月三十一日までの出撃の詳細な記録が二十三頁にわたってまとめられている。

 日本全土の基地から出撃する「渡洋爆撃」も上海・南京はもとより昆明、成都、重慶、蘭州まで空爆しているのである。日本海軍航空隊はこの実戦を通して真珠湾基地攻撃能力を保有した。このためどれほど多くの国税が費やされたことか。どれほど多くの中国人の生命・財産がうばわれたことか。

          (つづく)

第8回実行委員会

  第8回歴史・人権・平和基金(三菱マテリアル基金)記念碑建立実行委員会は、3月8日に開催され、三菱マテリアルから提起された3か所の候補地について検討。ゴールデンウイーク明けに、美唄の現地を視察することになりました。記念碑建立の石材業者についても協議し、美唄支部の推薦があるかを問い合わせ、第9回実行委員会で検討することになりました。

『四、建立した場所と除幕式』

 『四、建立した場所と除幕式』

 「中国烈士園 日中不再戦友好碑建立の経過

   在余市郡仁木町共同墓地内」より      

                  劉連仁さんの思い出(15)

           日中友好協会北海道連 会長 鴫谷 節夫


 前回に続き引用します。~(建立した場所)~

 建立した場所は函館本線二木駅より一粁程離れた、風光明媚な果樹園に囲まれ、はるか日本海が望まれる丘の上で、仁木町共同墓地内にあります。土地は仁木町より無償で660平方米(200坪)提供され、間口一〇米、奥行二〇米、高さ一・五米の石垣を築き、碑石は高さ五米の大理石、碑の前の広場は玉石を敷きつめてあります。又今日までニ回にわたって補修を行い、周囲に植樹しました。

 ~(除幕式)~

 昭和四十一年十月二十九日、中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会会長大谷瑩潤氏を迎え除幕式記念慰霊祭を行いました。この日実行委員会役員をはじめ各界代表二百余名列席し、小樽仏教会六十名の僧侶の読経の中でしめやかに法要が行われ、とくにこの日小樽仏教会会長泉勢誠氏より毎年の慰霊祭に協力奉仕することが発表され、今日までつゞいております。又毎年の慰霊祭は七・七盧溝橋事件を記念して全道規模で行い、特に後志管内二十市町村が積極的に協力参加されていることは、全国的に見ても注目すべき事であります。

 尚この中国烈士園「日中友好不再戦碑」には、昭和二十年の春、小樽市の港湾で強制労働で犠牲になった五名の殉難者も合葬してあります。

 ◇碑の表面題字は大谷瑩潤氏の筆で、裏面は郭沫若氏が中国より墓碑銘として寄せられたものであります。




 一九六五年十一月十日

     為記念 郭沫若

      中国殉難烈士


「日本中国友好協会小樽支部輝く十五年の歩み」に次のように書かれています。

 

 この碑の建立は支部創立以来最も大きな事業であって、一年有余の調査の結果各界代表八〇名によって実行委員会を構成し、特に前年訪中した小樽経済友好視察団に参加した方々の協力は非常に大きなものがありました。

 

 仁木町の「中国烈士園・日中友好不再戦碑」は全国に例を見ない壮大なものです。直後に勃発した「文化大革命」と対峙し、その本質を明らかにし、北海道で中国人殉難者慰霊祭の輪を広げて伝えていく思想闘争が必要になっていました。

                 (つづく)

 真珠湾攻撃から 東京大空襲・広島・長崎へ

  真珠湾攻撃から

   東京大空襲・広島・長崎へ

      ❘敵基地攻撃能力保有の末路❘(上)

              日中友好協会道連会長 鴫谷 節夫

 「12月8日と シンガポール陥落」

 昭和16年12月8日、日本海軍の機動部隊が極秘裏にハワイ島の米軍基地に接近し、航空機による奇襲攻撃を行った。このとき私は国民学校入学直前で何も覚えていないが、どういうわけか12月8日というと寒い天気の早朝、稲刈りが済んだ田圃の落穂に霜が降りて、それに陽が当ってキラキラ輝いている情景が浮かぶ。

 翌17年に一年生になって間もなく、学校でシンガポール陥落のお祝いというものが配給になった。軟式のテニスボールのようなものだったが数が足りない。くじ引きになって、くじ運の悪い私は当然貰えなかった。見たところ粗末なゴムで、そんなに欲しいとも思わなかったが、お祝いだから全員に一個づつ当たるのが当然だと思っていたので、今でも思い出すと腹が立つ。

  「ルーズベルトの敵討ち    4月18日日本初空襲」

 この初空襲についてはなんの記憶もないが、のちに書かれたものを見ると、アメリカ軍の「通り魔にも似た奇襲爆撃」であった。空襲による被害者は、死者五〇名、負傷者四〇〇名以上、家屋約二〇〇戸全半壊などであった。

 最近入手した「日本大空襲『実行犯』の告白」によれば、この日本初空襲という無謀な作戦は、ルーズベルトがアーノルドに命令したものである。「その空襲に対し、ルーズベルトは日本への報復を強く求める。『日本本土を爆撃する手立てを一刻も早く考えよ』と檄を飛ばし、作戦計画の立案を命じていた。航空軍は国のために貢献できることを示さなければならなかった。復讐心からルーズベルトは早急に結果を求めていたがアーノルドは頭を悩ませたという。」 (新潮文庫)

『三、企画と建立の経過』

 『三、企画と建立の経過』

 リーフ「中国烈士園日中不再戦友好碑建立の経過             

     在北海道余市郡仁木町共同墓地内」より      

                  劉連仁さんの思い出(14)

          日中友好協会北海道連 会長 鴫谷 節夫


  前回に続いて、標記のリーフより次のとおり引用します。

 

 小樽支部は、田浦事務局長の報告をもとに、本部及び道連と連絡をとりながら友好碑建立の企画に入りました。とくに企画するにおいて特記しなければならないことは、高木仁木町長の厚意ある協力であります。「私はかって戦争で中国へ行ったことがありましたので、この役場に勤めてから今日まで、大江鉱山の殉難者のことがいつも気にかけてきましたが、このたび日中友好協会の友好碑建立の趣旨を聞いて、地元町長としてだけでなく、私個人の意志としても積極的に町議会にはかり、立派な碑を建てて犠牲者の霊に報えたいと思います。これについていろいろ困難な問題もあるでしょうが、どうかなんなりと遠慮なく相談していただきたい。」

という高木町長の申出でが支部役員を大きく勇気づけました。そしてその後この言葉通り、敷地問題や鉱山側との折衝等に先頭にたってくれました。

 建立実行委員会は中国人俘虜殉難者実行委員会会長大谷瑩潤氏をはじめ、本部・道連役員をふくめ自治体・経済・文化・労働・青年・婦人・民主団体の代表八十余名で構成しましたが、特に協会役員・活動家と訪中した各界の人々が中心的役割を果たしました。これら役員の方々から百四十余万円の浄財が寄せられ、又報道関係の協力によってこの友好碑建立をめぐって友好運動の重要性が多くの人々に更に深く理解されるようになりました。

 中国烈士園の構図は藤森茂男常任理事が担当し、設計を仁木町建設課長に委嘱し、工事監督を井上良次委員が責任を持たれました。又この募金活動のなかで、当時の日本鉱業はその後北進鉱業にかわったが、高木町長と実行委員会役員の説明をこころよく納得され、今日まで慰霊祭にも積極的に協力してくれております。 

 次回は烈士園の建設場所と除幕式について触れた個所を紹介します。

           (つづく)

戦地を訪ねて           

 戦地を訪ねて         十勝  長谷部悦子


 私の父は1910年、幕別町の開拓農家の4男に生れ小学校卒業後は農作業の毎日を送りました。20歳の兵役検査で甲種合格すると志願して旭川の第七師団に入営。1932年9月、出動命令が下され父は機関銃隊として満州へ出征しました。10月、奉天周辺の匪賊討伐。11月、北方へ移動。

 日記には「満州の匪賊を無くすには農民の若者に働き甲斐あらしむるのが一番の早道だろう」と書き、貧しく悲惨な志那人の日常に目をむけています。

 12月更に北へ、ソ連国境のハイラル、内モンゴルのコロンバイルへと行軍は続きます。

 日記には「想像していたとおり今年の年越し来年の元旦は歩きながら戦闘しながら送るのだ。明日敵にぶつかる事は確実らしい」と。

 1933年 2月 3月は南下。万里の長城のある熱河省での作戦に組み込まれ、中国正規軍との戦闘になり、長城の関所である喜峰口で攻防が繰り広げられました。

 父はこの戦闘で左上胸部に貫通銃創を受け重傷となり何か所もの病院で治療を受け、約50日後に旭川に戻り陸軍病院に入院しました。7ケ月余りの治療で故郷に帰りましたが、農作業に耐えられる体調にはならず、小学校の近くで文房具雑貨の店を開きました。父はこの店に「受益店森下商店」と名付けました。

 受益店とは、父が負傷した村の名前だったのです。

 日中戦争を研究している簔口先生から今も受益店村があると聞き、2019年3月下旬、先生と妹と3人で受益店村を訪ねました。私は、戦闘は荒野での闘いだったのだろうと思っていたのですが、そこには集落があり人々の暮らしがあり、どれだけの犠牲を強いたのか、と胸の詰まる思いで帰途につきました。90年も前に父が立っていた地は、今はダム湖の下になっていましたが、山容を眺めながらこのあたりかな と思ってきました。

 父はお茶箱一杯に遺品を残しました。軍服、日記、アルバムと一冊の綴りです。父が所属した機関銃中隊長が家族に向けた文書「ご家族の皆様の御子息を預り致す小官として」渡満以降の中隊行動表が送られていました。ガリ版刷りで隊員の様子も詳しくて驚きました。

          あの山容がそうかも知れないと、ダム湖にボートで乗り出し写真を撮りました。

                            左、妹(池田)、私、右、簔口先生

父森下明有が来ていた軍服です。左胸上部に小さな穴が見えます。昭和7年の軍隊日記です。1日も欠かさず記していました。