2021年12月14日火曜日

【戦後七六年を考える旅】を開催

  旅システム・日本中国友好協会共同企画

  【戦後七六年を考える旅】を開催

     北海道連・札幌支部事務局長 影浦 貞宏

  コロナ禍で開催が困難であった平和の旅ツアーが、11月20・21日、20人の参加でようやく開催されました。

 今回のツアーは「三船遭難事件」と「劉連仁さんの苦難に満ちた逃避行の地を訪ねる」というテーマでした。(以下、旅システムが用意した福士廣志氏の著書「留萌三船遭難~終戦秘話」を参考)。

 昭和二十年八月十四日にポツダム宣言を受諾し、翌十五日天皇陛下はポツダム宣言受入れを表明しました。

その一週間後に起きた悲劇です。

 襲撃事件はいずれも八月二十二日未明のことでした。【小笠原丸】

 四時二十分頃、増毛別海沖で魚雷攻撃を受け沈没。乗員乗客641人が死亡、61人が生存。

【第二号新興丸】

 四時五十五分頃、小平村鬼鹿沖で魚雷攻撃を受ける。この船は民間貨物船を徴用し、特設砲艦兼敷設艦であったため反撃。二番船倉に魚雷を受けるもかろうじて留萌港南岸壁に着岸。乗員・乗客約400人。死亡250人、行方不明150人。3,200人が生存。

【泰東丸】

 九時五〇分頃、同じく小平村鬼鹿沖で砲撃を受け沈没。乗員乗客六六七人が死亡。一一三人が生存。泰東丸にいたっては、抵抗の意思がないことを示すテーブルクロスを使った白旗を振っていたにもかかわらず、甲板上の引き揚げ者に大砲や機銃を発射したのです。

 降伏文書の調印は同年九月二日、ソ連はこの日を終戦と主張しています。

 ソ連は日ソ中立条約の有効期間中に宣戦して日本を攻撃したのであるから、ソ連との戦争に関しては一方的にソ連の側に責任があると思います。

 しかし、家永三郎氏は「戦争責任」という著書のなかで「日本の侵略の矛先が二〇世紀初頭以来ロシア=ソ連に繰り返し向けられていた。少なくとも日本人にソ連の対日開戦責任を論ずる道義的資格はない」と、書いています。

 私たちは、小笠原丸殉難碑をお参りし銘酒国「稀の酒蔵」を見学、そして食事は海鮮丼を堪能。次に留萌の樺太引揚三船殉難平和記念碑と第二号新興丸記念碑。鬼鹿の三船殉難慰霊の碑と資料館を巡り、ほろしん温泉ほたる館に向かいました。 翌日劉連仁さんが強制連行・強制労働を強いられた今は湖の底となった昭和炭鉱跡地や、連行されて来た時に乗せられたであろうドイツ製の貨車や鉄路、そして当別町の劉連仁生還記念碑などを見て回りました。 

            当別町の劉連仁生還記念碑を囲む参加者