2021年5月11日火曜日

【席占明さん文書】 劉連仁さんの思い出(4) 日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫

 【席占明さん文書】劉連仁さんの思い出(4)

          日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫

 私が日本中国友好協会に参加したのは、1960年の夏でした。この年はご存じのように60年安保の大闘争が全国を席巻した年で、6月の山場には全国各地で上京抗議団が組織され、北海道からも全道労協を中心に強力な抗議団が上京しました 

 私は北海道高教組代表団の一員として参加し、その時知合った小樽支部の相場実さんに誘って貰って日中友好運動に生涯関わることになりました。

 今回劉さんの事を書くために資料を整理していると「席占明さん文書」と自筆した袋が出てきました。その中に「劉連仁の帰国前後」という題の講演記録(2000年12月8日)がありました。帰国直後(天津)の劉さんの様子を欧陽文彬記者が回想した一節があったので紹介します。

 翌日欧陽さんが、よく眠れましたか?と聞くと、思わず劉さんが泣きだしました。どうしたのかと聞くと、「俺はもう普通の人並みの生活ができなくなった。北海道の気候は寒く冬は長い。山の洞窟の中で寒さをしのがねばならず、暖かい日に穴から出るくらいで、あとは昼となく夜となく穴の中で縮こまっているだけ。林の中で野宿するときはクマの襲撃を注意するため熟睡できない。一晩に何十回もびっくりして目が覚める。いまベットがあってもうまく眠れない」と言いました彼女は、大の男が泣いているのを本当にたまらない。

 昭和炭坑での虐待、山での苦難でも泣いたことがないのに。これは相当のショックを受けたのだと思うと回想しています。




 席占明さんがこの講演をした2000年9月2日に劉連仁さんは87歳で亡くなっています。