劉連仁さんが語ったこと
2021年6月8日火曜日
劉連仁さんが語ったこと
6月27日に予定していた 第56回中国人殉難者全道慰霊祭は 9月26日に延期します
5月19日に予定していた日中友好協会北海道連理事会は、コロナの感染拡大で札幌・北海道に緊急事態宣言が発令中であり中止し、文書理事会としました。
19日は、鴫谷節夫会長、小川勝美理事長、影浦貞宏事務局長の3氏で会議を開き、文書理事会の議案を検討しました。
差し迫った課題である、第56回中国人殉難者全道慰霊祭は、9月26日に延期して開催します。
室蘭の第29回中国人殉難者慰霊の集いなどを予定しています。
6月12日開催の第70回日中友好協会オンライン大会には、鴫谷節夫道連会長と蔦保収苫小牧支部事務局長が代議員として、伊藤貞市苫小牧支部長、原聰釧路支部長、影浦貞宏道連事務局長の3氏は評議員として、小川勝美理事長は本部役員としてこの大会に参加します。
太極拳サークル活動や中国語教室などについても、ワクチン接種による感染状況を見ながら取り組んでいきます。
また、昨年度の決算は、コロナ禍で思うような活動ができず、旅費を始め各種支出が減少し、黒字決算となりました。予算もコロナ禍を想定して抑えた予算になりました。
【雑誌「世界」 昭和35年5月号の特集
【雑誌「世界」】昭和35年5月号の特集
劉連仁さんの思い出(5)
日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫
中国人強制連行の問題は終戦直後米占領軍によって摘発された秋田県花岡事件によって知られています。
1953年3月に結成された「中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会」は多くの民間団体が結集し、中国人強制連行殉難状況の調査・中国人殉難者の慰霊・遺骨の収集、送還などに取組み、その成果は雑誌「世界」昭和35年5月号に特集「戦時中における中国人強制連行の記録」として発表されました。特集の中心となる【報告】戦時下における中国人強制連行の記録は、38ページもあり衝撃的な内容でした。
中野好夫氏は「この報告を読んで」という4ページの文章を寄せ、花岡事件とともに劉連仁事件についても触れています
・・また本稿にも出る秋田県花岡における中国人虐殺事件などについても、詳細はともかく、一応その輪郭は知っていた。さらに一昨年明らかになった、ほとんど事実とは思えないほどの劉連仁事件なども、この問題のもつ戦慄すべき深刻さをわたしたちに反省させないではおかなかったはずだ。
・・・いまこの詳細な総合的報告を読んでみて思うことは、わたしなどが知っていると考えていたことなどは、このおそるべき巨大な事実の実に九牛の一毛というか、片鱗というか、ほとんど知っていたなどとは言えるものでないことを、いまさらながら教えられたからである。しかも加害者である日本人のわたしたちが知らなかったというところに、実に大きな問題があると思う。・・・
劉連仁事件の本質が約百人が虐殺された花岡事件と匹敵するという中野氏の指摘は、今回読み返してみて私自身深く考えさせられました。劉連仁さんが東京地裁に提訴した真意を改めていま考えています。
なおこの特集を受けて、「世界6月号」には、【座談会】われわれは中国人に何をしたか❘「中国人強制連行の記録を読んで」❘も載っています。聞く人が谷川徹三氏で、元軍人の藤田茂、国友俊太郎、五十嵐基久の3氏が話し合っています。
2021年5月11日火曜日
私と中国 帯広市 本川 功市
私は昭和18年、旧満州奉天(現瀋陽)で生まれました。父母は、新たな生きる場として上3人の子供を連れて大陸に渡っていたのです。
働き場所は満州鉄道系列の炭鉱です。そこで係員として働き、現地の中国の人たちと一緒に働き随分と仲良くしていただいたとききます。しかし敗戦、ご多分に漏れず大変な思いをしながら帰国・・・。
引き上げ時私は3歳、中国の記憶も引き上げの記憶も全くありません。しかし生まれ故郷、物心ついたころから一度は中国に行ってみたいと思っていました。
やっと訪ねることが出来たのは60歳を過ぎてからのことでした。夫婦と長男、引き上げ時8歳だった長姉の4人で生まれ故郷を探して歩きました。どうやらそれらしい所までは行きましたが、そこが本当に故郷なのか遂に分らずじまいでした・・・。炭住などは在りませんでした。逆に、日本軍が中国人を虐殺して埋めたという万人坑などを目にし、心を痛める旅となりました。
しかし、私は中国の大地が好きでもう20回近く訪れています。もう何回か行きたいと願っていますがこのコロナ禍、そして今の習近平政権には恐怖さえ覚えます。正常に戻るにはどちらもしばらく時間が必要なようです。
80歳を目前にした今、中国旅行はもう無理かとも思いますが一日も早く自由に往来ができる日を願っています。
【席占明さん文書】 劉連仁さんの思い出(4) 日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫
【席占明さん文書】劉連仁さんの思い出(4)
日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫
私が日本中国友好協会に参加したのは、1960年の夏でした。この年はご存じのように60年安保の大闘争が全国を席巻した年で、6月の山場には全国各地で上京抗議団が組織され、北海道からも全道労協を中心に強力な抗議団が上京しました
私は北海道高教組代表団の一員として参加し、その時知合った小樽支部の相場実さんに誘って貰って日中友好運動に生涯関わることになりました。
今回劉さんの事を書くために資料を整理していると「席占明さん文書」と自筆した袋が出てきました。その中に「劉連仁の帰国前後」という題の講演記録(2000年12月8日)がありました。帰国直後(天津)の劉さんの様子を欧陽文彬記者が回想した一節があったので紹介します。
翌日欧陽さんが、よく眠れましたか?と聞くと、思わず劉さんが泣きだしました。どうしたのかと聞くと、「俺はもう普通の人並みの生活ができなくなった。北海道の気候は寒く冬は長い。山の洞窟の中で寒さをしのがねばならず、暖かい日に穴から出るくらいで、あとは昼となく夜となく穴の中で縮こまっているだけ。林の中で野宿するときはクマの襲撃を注意するため熟睡できない。一晩に何十回もびっくりして目が覚める。いまベットがあってもうまく眠れない」と言いました彼女は、大の男が泣いているのを本当にたまらない。
昭和炭坑での虐待、山での苦難でも泣いたことがないのに。これは相当のショックを受けたのだと思うと回想しています。
席占明さんがこの講演をした2000年9月2日に劉連仁さんは87歳で亡くなっています。
2021年4月6日火曜日
図書館の自由
図書館の自由
【運命の糸に導かれて】 劉連仁さんの思い出(3)
【運命の糸に導かれて】 劉連仁さんの思い出(3)
日中友好協会北海道連 会長 鴫谷節夫
昭和20年7月末、劉連仁さんが明治鉱業・昭和鉱業所から仲間5人で脱走した時、私は遠く離れた岡山県後月郡西江原町の国民学校4年生でした。食料増産が叫ばれ、3年生以上は山奥の開墾と薩摩芋の植え付けに駆り出されていました。
米空軍の空襲で阪神方面は元より近くの岡山は6月29日未明、福山は8月8日深夜焼き払われ、8月6日は夏休み中だったが、数日後全員登校で「広島新型爆弾恐るるに足らず」と訓示され、15日は6年生の兄が昼すぎに帰ってきて、「日本は負けた」と言ったが日頃叫ばれていた「一億玉砕」の話は出ませんでした。
この頃劉さん達仲間は3人になって、羽幌付近を線路沿いに北に進んでいました。北に進んでいけば朝鮮と陸続きで、満州まで歩いて行けるのではないかと考えたそうです。
戦争が終わって9年目、1954年4月私は幸運にも広島大学教育学部に進むことが出来ました。ここには珍しい「高校教員養成課程」がありその中の国語科です。その年3月ビキニ水爆実験があり、55年に第1回原水爆禁止世界大会が広島で開かれました。
1958年2月劉さんは当別で発見され、4月10日白山丸で帰国し、私は同じ4月教員になって俱知安農業高校に赴任しました。
運命の糸に導かれるように劉さんとの接点が生まれ、小林多喜二に憧れて北海道に来た私の、やるべきことの一つが出来たことになります。