2022年11月1日火曜日

日中友好協会62年の回想    

 日中友好協会62年の回想

 道連顧問・美唄支部事務局長 供野 周夫


 私が日中友好協会の一員となったのは昭和27年の事で知人のすすめで「三笠でも日中友好協会を組織してほしい」という話であった。日中不再戦を意識している何人かで支部(準備会)を組織した。少ない人数で中国物産展を開催した。一番売れたのは絹張で中国の山水画が描かれていて、飛ぶように売れた。

 昭和30年頃だったと思うけど、北炭新幌内の労組委員長が中国の炭鉱協会の招待で中国に行った。その事を聞いて地区労・社会党の中では「自分も日中に入会していたら中国に行けるかも知れない、という淡い思惑があり、日中友好協会に15人程度入会するので地区労・社会党に副支部長と会計のポストをほしい、というものであった。翌日の総会でもポストの要求で混乱し、道連の猪股事務局長の説得にも聞く耳をもたず、横暴が通らないとみると退散した。結局従来の役員を確認して散会した。

 地区労・社会党の妨害は昭和41年の年にも起きた。AA連帯委員会の一行十数名の中国代表団が三笠に来ることになり、昼食会を、三笠の労働会館の食堂で開くことをを決めていたらしい。2日前になって、昼食会の会場を断って来た。道連からの知らせで、年休を使い会場探しに奔走した。三笠で一番豪華なホテルは快よく応じてくれて一行は喜んで次のスケジュールで会場を去った。昭和42年に美唄に転勤するまでの15~6年は波乱万丈の時代であった。

 美唄に正統本部という分裂組織があったようだが、そのうちに消えて、今、日中友好を口にするのは私たちだけである。

     (とものかねお88歳)